石川裕雄
石川 裕雄(いしかわ ひろお、1948年6月4日- )は、広域暴力団・一和会元常任理事、悟道連合会元会長。
略歴
- 少年院に入るような不良だった一方、出所後は関西経理専門学校に進学し、経理を学ぶなど勉強熱心な一面もあった。
- 関西経理専門学校を卒業後、大阪学院大学に進学するも中退。
- 国粋主義系の独立組織・石川屋総業を結成する。
- 地元の暴力団とトラブルになり、組員を殴り倒した際に、三代目山口組・北山組組長・北山悟が仲介役となったことがきっかけで山口組入りした。
- 1970年代前半頃、山口組では薬物をシノギにするのが御法度となっていたが、北山組の若衆に覚醒剤を売りつけていた小西一家の若頭を日本刀で斬殺したことでその名が知られることとなった。
事件後、石川裕雄は小西一家の若頭を病院に運び込んだ後、警察に自首し傷害致死罪で逮捕され、約5年ほど服役。
- 出所後、石川裕雄はアメリカ・ネバダ州に留学。
- 1970年代末頃、日本に帰国し渡世に復帰した。
- のちに悟道連合会を率い、北山組の若頭を務めた。
- 山口組四代目の跡目問題で山一抗争が勃発。
- 北山組組長・北山悟が一和会へ合流し組織委員長に就任したことで石川裕雄は一和会側につくこととなり、一和会直参からのちに常任理事に昇格した。
- 1985年1月26日、石川裕雄が指揮し、一和会二代目山広組若頭・後藤栄治、同組行動隊長・長野修一、実行犯の同組員・長尾直美?、田辺豊記?、立花和夫?により、四代目山口組組長・竹中正久を襲撃。
竹中正久、山口組若頭・豪友会会長の中山勝正、警護役の南組組長・南力が銃撃され、中山勝正は4時間後に死亡、南力は即死、竹中正久は大阪警察病院で翌27日に死亡した。
- 1986年7月12日、竹中正久組長殺害を指揮した石川裕雄は、福岡市のゴルフ場で逮捕された。
- 一審では死刑を求刑。
- 1987年3月14日、大阪地方裁判所により無期懲役の判決が下りて検察が控訴。
- 1989年3月20日、大阪高等裁判所により控訴が棄却され無期懲役の判決が確定。
- 2020年現在、旭川刑務所で服役しており収監されて33年経過している。
現在でも極道である、との信念から仮釈放申請も許可されない事を本人は十分承知しており、身内や弁護士が申請を勧めても頑なに拒否しているという。
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