平井亀吉
平井亀吉(ひらいの かめきち、別名・雲風亀吉、本名・大林亀吉 1829年-1893年)は幕末の侠客、博徒、元力士。平井一家初代または二代目。
略歴
- 愛知県宝飯郡平井の人。
- 文政11年(1828年または1829年)9月7日、三河国宝飯郡平井村(現在の愛知県豊川市平井町付近)に大林市作の次男として生まれる。
- 20歳の頃江戸に出て、大相撲の清見潟部屋三代目清見潟又市の弟子となり四股名を風雲又は風雲ノ藤八といった。
- 嘉永3年(1858年)11月場所、東序の口三十枚目に雲風藤八の名で番付に出る。数場所後に雲風亀吉と改め、嘉永6年2月、東序二段十九枚目に昇進したが休場し廃業。
- 力士廃業後、故郷に帰り博徒となる。当時売出中の東三河を縄張りとする博徒平井一家親分・小中山七五三蔵の子分となり、後に平井一家の跡目を継ぎ大親分となる。
当初、平井一家初代は七五三蔵であり、その跡目の亀吉が二代目であったが、現在の六代目山口組・平井一家の系譜は亀吉が初代とされている。
- 力士時代の四股名から通称・雲風亀吉(うんぷう かめきち)や風雲亀吉(ふううん かめきち)とも呼ばれた。
- 東海道の宿場御油宿(現在の豊川市御油町)・赤坂宿(現在の豊川市赤坂町)を主な縄張りとした。
- 甲斐国八代郡上黒駒村(現在の山梨県笛吹市御坂町上黒駒)の博徒黒駒勝蔵と兄弟分となり、勝蔵が駿河国有渡郡清水町の清水次郎長(清水一家初代)と対立していたため亀吉も次郎長と何度も争った。
- 元治元年(1864年)、勝蔵が平井村の亀吉の所に逗留していたところ、清水一家に幡豆郡寺津村(現在の西尾市寺津町)の寺津間之助(寺津一家二代目)、幡豆郡吉良村(現在の西尾市吉良町)の吉良仁吉(寺津一家三代目、後の吉良一家初代)、宝飯郡形原村(現在の蒲郡市形原町)の形原斧八(形原一家初代)ら次郎長と協力関係にある勢力を加えた34名に襲撃され、亀吉と勝蔵の子分6人が殺害された。亀吉と勝蔵は逃げ切ることができた。
- 同年、報復として亀吉の末弟善六が形原斧八を襲撃し子分7人を殺害した。
- 慶応2年(1866年)、伊勢国河曲郡神戸町(現在の三重県鈴鹿市神戸付近)の神戸長吉(伊勢神戸一家初代)と伊勢国員弁郡穴太村(現在の三重県員弁郡東員町穴太付近)の穴太徳次郎が争った荒神山の喧嘩には長吉側に次郎長や仁吉の勢力、徳次郎側に亀吉や勝蔵の勢力がそれぞれ加勢した。
- 亀吉は全国に侠名を馳せ各地に多数の兄弟分がいた。主な兄弟分は黒駒勝蔵、岩淵源七、間ノ川一家斉藤平作など。
また、伊豆国、甲斐国、相模国、武蔵国に子分3,000人を抱えた大親分大場久八(大場一家初代)の舎弟でもあった。
- 慶應4年(1868年)、戊辰戦争(北越戦争)に従軍した後、士族に登用された。ともに従軍した博徒に尾張国愛知郡北熊村(現在の長久手市北熊)出身で東春日井郡水野村(現在の瀬戸市水野地域)の吉五郎一家の跡目北熊実左衛門(後の北熊一家初代)がいた。
- 明治維新後、平民に戻された亀吉は名古屋に移り住んだ。
- 亀吉が名古屋にいる間、一家は亀吉の末弟善六が預かっていたが、縄張りは他の一家に荒らされ、善六は次郎長につながる形原斧八の刺客に殺害された。
- 亀吉の次弟下地常吉(後の平井一家二代目)が流罪から戻り形原一家へ報復し一家を再興した。
- 常吉が亀吉の跡目を継ぐが、以降も亀吉は平井一家に影響力を持っていた。
- 平井一家と清水一家は、信濃国下高井郡中野村(現在の長野県中野市)の間ノ川一家(間川又五郎一家、相川一家)の二代目相川平三、浜松の斉藤善五郎(後の国領屋一力一家初代)、名古屋の津坂音吉の仲裁で和解した。
- 明治13年(1880年)6月15日、浜松宿の料亭島屋で盛大な手打ち式が行われた。亀吉は手打ち式には参加しなかった。
- 晩年は宝飯郡下佐脇村(現在の豊川市御津町下佐脇付近)に住んだ。
- 明治26年(1893年)3月24日歿。行年65歳または66歳。墓所は愛知県宝飯郡御津町下佐脇の白川のふもと共同墓地。
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