澄田会
四代目澄田会(すみだかい)は大阪府大阪市港区に本部を置いた暴力団で、指定暴力団・神戸山口組の元二次団体。旧本部は大阪府大阪市港区築港4-4-6澄田ビル。
略歴
- 二代目山口組若頭を務めた澄田寿三が1942年、二代目山口組組長・山口登組長が死亡すると山口組を離れ、1946年に澄田組を結成した。
- 澄田組は大阪府大阪市港区築港を拠点とし、大阪港の港湾荷役を背景にして地盤を築き、大阪で有力な独立組織となった。代紋は「井桁に寿」を用いた。
後に山健組で幹部を務め、五代目山口組若頭補佐となる中野会会長・中野太郎は澄田組傘下の名和組(後に任侠史研究家となる名和忠雄組長)の出身。
- 1977年5月、澄田寿三が死去。
- 1978年3月、若頭・金崎善夫が二代目を継承した。
- 1981年、二代目旭琉会会長・和多田真山、三代目山口組・二代目吉川組組長・野上哲男、二代目澄田組・二代目藤井組組長・橋本實の3人が五分の兄弟盃を交わした。これが1973年頃から長期にわたって続いた第四次沖縄抗争の実質的な手打ちとなった。
- 1988年10月、金崎善夫が引退。舎弟頭・中嶋政雄が三代目を継承した。
また、澄田組を澄田会に改称した。
- 1990年11月、中嶋政雄が五代目山口組組長・渡辺芳則と親子盃を交わし五代目山口組に加入した。
- 2004年4月、中嶋政雄が死去。理事長や若頭を歴任していた竹森連合?会長・竹森竜治が四代目を継承した。
竹森竜治は五代目山口組若中・勝龍会会長・福島末博と盃を交わし五代目山口組の三次団体となった。
- 2007年7月、勝龍会会長・福島末博が引退。
同年9月、竹森竜治が地盤を引き継ぎ六代目山口組の直参に昇格。澄田会は再び山口組となった。
- 2012年5月、竹森竜治が別人名義で車を購入して登録したとして、電磁的公正証書原本不実記録・同供用の疑いで逮捕された。
- 同年9月、竹森竜治が六代目山口組から除籍され引退、澄田会は解散した。
- 2015年8月、六代目山口組が分裂し神戸山口組が結成されると、同年10月、竹森竜治が四代目澄田会を再結成し神戸山口組へ加入して渡世に復帰した。竹森竜治は神戸山口組舎弟に就いた。
- 2020年10月、竹森竜治が引退。澄田会は解散した。
系譜
初 代 - 澄田寿三
二代目 - 金崎善夫
三代目 - 中嶋政雄(五代目山口組若中)
四代目 - 竹森竜治
四代目澄田会組織図
会 長 - 竹森竜治(神戸山口組舎弟)
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