極政組
四代目極政組(きょくせいぐみ)は福岡県中間市中鶴1-25-12に本部を置く暴力団で、指定暴力団・五代目工藤會の二次団体。旧極政会。
系譜
初 代 - 溝下秀男(初代溝下組組長・初代極政会会長・三代目工藤會会長)
二代目 - 江藤允政(三代目工藤會執行部組織委員長)
三代目 - 今田雄二(五代目工藤會常任相談役)
四代目 - 内蔵成喜八
略歴
- 1961年、溝下秀男が地元中学を卒業し、北九州市門司を本拠に大長健一が率いた愚連隊・大長組?へ入門した。
- 1970年、大長健一が殺害され、24歳で溝下組を結成した。後に傘下組員が増え組織名を極政会と改めた。
- 1979年、草野一家へ合流し、のちに若頭となる。
- 1990年、三代目工藤會の会長を襲名した。
- 2000年、四代目工藤會の総裁に就任した。
- 2008年7月、溝下秀男が死去した。
- 2012年7月8日、筑紫野市にて、江藤充政?・元極政組組長が3発の銃弾を至近距離から撃たれ射殺された。引退後の行動がその引き金となったと云われる。
兼ねてより三代目工藤會内部において旧草野一家系と旧工藤会系が対立関係があった。
草野一家と工藤会は抗争を重ねたが、その後、恩讐を超えて大同団結して工藤連合草野一家を結成した訳である。
極政組は、三代目工藤會会長で元草野一家若頭の溝下秀男が興した組で、元は極政会という名称であり、
江藤充政?は、 その三代目工藤會会長の側近中の側近で組織委員長・警護隊長を務めていたが、その後、江藤充政?は収監中に除籍処分になり引退させられた。
2008年7月に溝下秀男が急逝してから、旧草野一家系溝下派の有力者が次々と何者かの手により殺害されていく。
篠崎一雄?(篠崎組?組長:射殺)、(末松勝巳?組長:射殺)、安高毅?(津川組相談役:射殺)、徳本竜吾(徳竜組?組長:射殺)と続く中、
江藤が組長を務める二代目極政組に衝撃が走る。
当時、2年間の服役をもう少しで終えようとする江藤充政?は、二代目極政組の組長の座を譲り突然引退、若頭だった今田雄二が三代目極政組組長となった。
長期服役ならともかく、代替わりを服役中に行うのは異例中の異例であり、通常は、当代が関係者に十分な根回しをしてから行われるのが通例である。
この代替わりが発表される直前の8月に江藤と親しい篠塚が射殺されている。
しかも、一連の事件中、極政組の今田雄二を中心に主要幹部12名は、組を脱退しようとした組員を集団で暴行したとして、逮捕監禁致傷容疑で全員逮捕されている。
つまり、幹部が社会不在、まして当代が服役中に代替わりが行われた。
因みに、無理やり引退させられた江藤に対する四代目工藤會会長の野村悟、理事長の田上文雄の対応は、「破門」であり、事実上四代目田中組が溝下派を制圧した瞬間でもある。
三代目工藤會溝下秀男会長が亡くなり、草野一家出身で三代目工藤會会長代行を務めた天野義孝も亡くなるなど草野一家出身の大物親分が鬼籍に入り無縁ではないだろう。
- 2021年8月24日、福岡地裁は市民襲撃4事件について、五代目工藤會総裁の野村悟に死刑判決、四代目工藤會会長の田上文雄に無期懲役を求刑し、理事長である菊池啓吾・五代目田中組組長が、2015年8月13日から組織犯罪処罰法違反・放火容疑(組織的殺人未遂)で拘置中でもあり、現在の五代目工藤會内部は混乱を極め、若い者は北九州を離れ東京に「出稼ぎ」し、資金獲得をしているのが現状である。
このご時世で、四代目工藤會発足時同様なことが現実に起きたとしたなら、まさに歴史は繰り返されると呼ぶに相応しいことになる。
- 一連の四代目、五代目工藤會内部による粛清が頻発したのは、実効支配を強める旧工藤会系田中組によるものである。
四代目極政組組織図
組 長 - 内蔵成喜八(五代目工藤會理事長補佐)
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