竹中正久
竹中正久(たけなか まさひさ、1933年11月30日-1985年1月27日)は、広域暴力団・四代目山口組組長。初代竹中組組長。
人物
- 「荒らぶる獅子」の異名を持ち、敵対組織ばかりか身内でも筋が通らぬと思えば強硬に出た。
- 潤沢な資金を有していたが、山口組四代目に就任するまで豪邸を建てるなどのことはしなかった。
非常にストイックな性格で贅沢には全く興味を示さず、飲み歩く・ゴルフなども好まず、用のない限り極力事務所を離れなかった。
- 普段から「人間、死ぬ時は何したって死ぬ。モチ食うたかて運が悪きゃ死ぬやろ」と護衛をつけることを嫌い、結果的に刺客を防げず凶弾に倒れることとなった。
- 普段の事務所では六法全書を読んだり、将棋をよく指したりして過ごし、普段の食事も子分と全く同じものを食べていたが、ホステスや芸能人に接した際にはチップをはずんだという。
また地方に出た際、系列組織が一夜の妻を提供しても手を付けなかった。
「子供がいると、この世にしがらみを残す。極道に女房、子供は不要」との考えを持っており、長年同棲していた女性が居たが、生涯独身を通した。
- 実弟の竹中武とともに刺青を入れていなかった。
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略歴
- 8男5女の兄弟で、このうちヤクザとなったのは、三男の竹中正久、四男の英男、五男の竹中正、六男の修、八男の竹中武であった。
- 1960年8月、地元の不良を糾合し竹中組を結成。
- 1961年12月13日、山口組から幾度と加入の打診を受け、三代目山口組組長・田岡一雄から盃を受け直参となる。
- 1962年、数百人の部隊と共に敵地・福岡に乗り込んで検挙された「博多事件」などで、山健組組長・山本健一から絶大な信頼を受ける。
- 1971年、山口組若頭・梶原清晴が海難事故で急逝。
後継若頭は、ともに若頭補佐の山本健一と山本広による決選投票で選出することになった。投票の結果、山本広が勝ったが山本健一の直訴により、田岡一雄から山本健一が若頭に指名された。
山本健一の山口組若頭就任に伴い、竹中正久は若頭補佐に抜擢された。
- 1978年2月、地元組織との抗争などで懲役2年の実刑判決が確定し、1979年9月まで神戸刑務所に服役。 出所の際には、組関係者ら約1000人が出迎えた。
山一抗争
- 1981年7月、山口組組長・田岡一雄、翌1982年2月の若頭・山本健一の相次ぐ死で、トップとナンバー2を巡る争いとなる。
- 1982年6月、山口組若頭に「山本健一の遺志」として竹中正久が就任。組長代行には山本広が就任し山健派対山広派の様相を呈すことになる。
同年8月、竹中正久は若頭就任間もなく賭博開帳による収益が無申告だった所得税法違反で逮捕され、翌1983年6月まで勾留された。
- 1984年6月5日、山口組内では過去に悲運を味わった山本広に同情する者が多かったが、竹中正久は三代目の妻であった田岡文子の強い意向で山口組四代目を受諾。
同年7月10日、山口組四代目の継承式が執り行われた。
田岡文子に反発した山広派は山口組を脱退、一和会を結成し山一抗争へと発展した。
勢力数こそ当初は一和会が山口組を上回っていたものの、武闘派・竹中四代目の怒濤の攻撃を前にして一和会は徐々に弱体化したが、密かに竹中暗殺を計画。
同年9月には暗殺部隊を結成。
- 1985年1月、竹中正久に懲役6ヶ月の有罪判決が確定。
同月26日、収監前の竹中正久は神戸の山口組新本部の上棟式の後、大阪府吹田市のマンションで、待ち伏せていた一和会・二代目山広組系組員に銃撃され意識不明のまま翌27日に死亡した。
竹中正久に同行していた若頭・中山勝正(豪友会会長)も射殺され、山口組は短期間の間に、再びトップとナンバー2を失う事態となった。
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