山勢金太郎
山勢金太郎(やませ きんたろう、1902年-1967年8月25日)は日本のヤクザ、博徒。泉一家六代目総長。
略歴
- 1902年(明治35年)、栃木県大田原市に生まれる。
- 幼少期に両親、兄妹を亡くし、親戚に育てられた。
- 大正期、当時長谷川万吉が率いていた泉一家に加入。
- 1928年(昭和3年)3月28日、当時盛況だった野崎村沢の馬市で泉一家が賭場を開帳していた折、栃木市一帯で「みどり組」という愚連隊を率いていた小松澤繁(後の親和会初代会長)ら3名の賭場荒らしに遭い、乱闘になった。
この乱闘で山勢自身も重傷を負うものの、小松澤繁ら3名を返り討ちにしている。
後日、矢板の料理店住吉本店にて手打ち式が行われたが、しばらく両者の関係には遺恨が残り、終戦まもなくの頃、小山の料亭古城園で行われた山勢と小松澤との兄弟盃まで尾をひいたと言われている。
- 1948年(昭和23年)、長谷川万吉の死後、西那須野一帯のシマを預かっていた山勢金太郎が泉一家の跡目を相続。
- 「那須の親分」と全国の博徒に名を知られていた。
- 全国の博徒から「博徒の鏡」と言われており、尊敬を集めていた。
- 兄弟分に小松澤繁、大町利一、福原陸三、金成豊彦、上澤庄吉。
- 博奕を唯一のシノギとしており、企業に手を出す渡世人を白眼視していた。
- 1967年(昭和42年)8月25日、西那須野町下永田の県道において、補助椅子に1歳の孫娘を乗せ、自転車で大田原市内の親戚宅に向かう途中、後ろからトラックにはねられ、交通事故死した。
- 同年11月25日、大田原市新富町の不退寺において、県内外の博徒200余名が集まり、盛大な本葬を行った。
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