清水次郎長
清水次郎長(しみずの じろちょう、本名・山本長五郎(やまもと ちょうごろう)、1820年2月14日-1893年6月12日)は幕末の侠客、博徒、目明し、実業家。清水一家初代。
略歴
- 1846年(弘化3年)頃、尾張大野(現・常滑市大野町)の賭場にて、廻しを質草に取られ困っている力士時代の八尾ヶ嶽宗七(後の保下田久六)と出会い、八尾ヶ嶽を弟分とする。
- 1850年(嘉永3年)、一宮久左衛門を殺害した八尾ヶ嶽と力士仲間の八万騎力蔵、畝比山清蔵、柏木石松、富士颪熊五郎、三国岩仲蔵、一ノ浜浜五郎、男山牛之助らを匿う。彼らを手厚く持成した治郎長は、上州館林の江戸屋虎五郎へ添状を書いて紹介する。これが縁となり、八尾ヶ嶽は江戸屋虎五郎の弟分となり名を久六と改める。
- 1858年(安政5年)、兄貴分の巾下長兵衛宅にて妻・お蝶が病死する。長兵衛は当時、兇状持ちの次郎長を匿っていたが、後に次郎長らを隠匿した罪で捕われ牢死した。
- 1859年(安政6年)6月、知多半島の乙川にて保下田久六を殺害する。久六は次郎長の弟分でありながら長兵衛の危機に素知らぬ振りを通した上に二足の草鞋を履き、官憲の手先として長兵衛の逮捕に貢献していた。この事情を知った次郎長の逆鱗に触れたとされる。
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