堺町事件
堺町事件 とは1981年2月4日に福岡県で発生した草野一家と工藤会の抗争事件。
概要
- 1981年2月4日水曜日、福岡県北九州市小倉の賑わう繁華街の夜に、初代草野一家若頭・大東亜会会長・佐古野繁樹と、工藤会理事長・矢坂組組長・矢坂 顕が、互いに至近距離から銃撃戦を繰り広げ、拳銃に装填された弾丸全てを撃ち尽くし、両者相撃ちで死亡した、歴史上前代未聞の事件。
事件の発端
組長射殺
- 1980年、縁組に出席もせず、愛人宅に入り浸っていた田中組組長・田中新太郎が、草野一家・極政会組員2名によって射殺された。数年前に会長の溝下秀男が銃撃され大怪我を負わされ、しかも被害者にも拘わらず服役させられてる事も燻っており、また親分である初代草野一家総長・草野高明の結縁式を、田中自身独断の意思で無断欠席したことに対する反発からと見られ、その後に抗争は激化の一途を辿った。
堺町事件の発生
- 1981年(昭和56年)2月4日未明、平日夜でも賑やかな福岡県北九州小倉堺町にある高級ラウンジクラブ「美松」を出た前で、草野一家若頭・大東亜会会長・佐古野繁樹(当時36歳)と、工藤会理事長・矢坂組組長・矢坂 顕(当時52歳)が偶然鉢合せした。互いに酒も入り口論は次第に激化、双方が拳銃を乱射、映画さながらの激しい銃撃戦となった。まず矢坂の警護に就いていた矢坂組組員が、その場で拳銃を数発発砲し、佐古野繁樹が撃たれた。しかし佐古野は倒れながらも腰から拳銃を抜き、その佐古野の銃口は、最初に発砲した組員にではなく、目の前に立つ矢坂 顕に向け拳銃の引き金を弾き発砲、矢坂も隠し持っていた拳銃で応戦した。結果二人とも、完全装填した拳銃の弾丸全てを互いの身体に命中させ撃ち尽くし、その場で佐古野繁樹と矢坂 顕の両名は出血多量により絶命した。事件の知らせを受けすぐに地元警察が急行し、周辺を立ち入り禁止区域にさせ現場検証を開始したが、目撃情報や司法による検死鑑定、より精細な検証の結果、福岡県北九州に於いて敵対組織同士、お互いナンバーツーの両名が、至近距離から全ての弾丸を撃ち尽くし、しかも相撃ちで果てたと知るや、関東組織では葬儀中に相撃ちで死亡する事件が昭和30年代に起きたが、運命的にも出会い頭の偶発的抗争事件としては歴史上前代未聞の大事件であり、その両名の「死しても相手を道連れ」的な意地と執念に、警察は非常に驚愕したという。この「堺町事件」から、工藤会と草野一家の抗争は泥沼化し、当月だけで6件もの発砲事件が発生した。
- この後、草野一家と工藤会は双方の関連組事務所へ銃撃し、更には草野一家には三代目山口組直系組長で、大分県別府・秋山潔率いる二代目石井組や伊豆組が、工藤会には反山口組である関西二十日会の縁につながる組長や福岡市の仲間が助っ人に駆けつけた。三代目山口組対反山口組の「九州全域規模の代理戦争」となる非常に緊迫した情勢となった。
堺町事件の終結
- 1981年、大規模な賭場で、工藤と草野と親交のある稲川会会長・稲川聖城の仲裁により、小倉北区の妙見会館にて工藤会と草野一家の手打ち式が行われ、完全に和解した。
- 堺町事件発生時は、溝下秀男は服役中であり、佐古野繁樹が撃たれ死去した報を聞くと、溝下は、現状服役中で何も行動出来ない苛立ちとショックを隠し切れなかったと晩年に述べている。溝下の出所後空白になっていた草野一家若頭を、溝下が引き受け就任した。
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