島村伊三郎
島村伊三郎(しまむらの いさぶろう、本名・町田伊三郎、1790年-1834年7月2日)は幕末の侠客、博徒、目明し。島村一家。
略歴
- 上野国佐位郡島村河岸の人。
- 1790年(寛政2年)生まれ。
利根川沿い三角州の島村前島・船問屋町田家・佐七の長男として生まれた。
- 16歳で武蔵国牧西村(現・本庄市)の博徒牧西兵助の子分となる(伊三郎が弟分の兄弟分であったとも)。
- 1810年(文化7年)28歳のとき、木崎宿で旅籠を経営しながら、関東取締出役道案内をつとめる孝兵衛の弟分となる。
- 文化10年(1813年)、島村一家を立ち上げる。
- 文政元年(1818年)、29歳の時兄弟分孝兵衛の勧めもあって、孝兵衛と同様に関東取締出役道案内となり、勢力を拡大。
- 大前田英五郎と上州を二分するほどの大親分となる。
縄張りは島村一円から世良田村、木崎宿におよぶ区域であった。
- 1834年(天保5年)7月2日、自身の縄張りである世良田村(現・群馬県伊勢崎市)長楽寺境内で博奕が開催された。
その日の夜、境宿(現・群馬県伊勢崎市)島屋で酒を飲んだ後、世良田へ向かう途中、米田村原山で国定忠治、忠治の子分・三木文蔵ら8人に襲われ、殺害された。享年45歳。
この事件は講談では三木文蔵が賭場で伊三郎に殴られた仕返しと言われているが、実際は売出し中の若き国定忠治が勢力拡大のために大親分を狙ったものとされる。
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