田中新太郎
田中新太郎(たなか しんたろう)は1940年~1979年・福岡県北東部若松市出身・日本のヤクザ。初代工藤組若頭(後の工藤會)・初代田中組組長。
略歴
- 1949年、工藤玄治により初代工藤組は福岡県小倉で結成された。
- 1963年、五市の合併により地方都市である北九州市が誕生した。
- 同年5月、三代目山口組が北九州市に進出した。
- 同年11~12月頃、工藤組は三代目山口組と抗争に発展し12月時点で両団体は和解に至った。工藤組若頭・草野高明は抗争を巡る件で逮捕され、懲役刑を受た。
- 1966年草野高明は留置場で工藤組からの脱退、自身の草野組解散を表明した。工藤組トップ工藤玄治の了承を得ない表明だったことから、工藤玄治と草野高明の間に溝が生まれた。
- 1969年、この時代に工藤組(工藤会の前身)に幹部として加入したのが、当時29歳の田中新太郎である。
- 1970年工藤組は「工藤会」に改称、同年田中新太郎は事務所を若松から小倉に移転し「工藤会・田中組」の看板を掲げた。
「幹部としての加入」「若松に事務所を持っていた」という2つの点から、
工藤組加入前から、田中新太郎は独自のグループを率いて活動していたことが推測される。
- 1974年田中組は直方市(北九州市の隣)に出て、地元の桃田組?を傘下に収めた。
- 1977年5月に出所した草野高明率いる草野一家は(工藤組元若頭)により、同年10月に結成された組織である。
- 1979年12月草野高明は三代目山口組二次団体・伊豆組トップの伊豆健児と五分の兄弟盃を交わし、三代目山口組と関係を深めた。
結縁式は1979年12月21日筑紫野市内で行われ、
工藤玄治会長をはじめ工藤会の最高幹部達が出席した中、田中新太郎のみ結縁式を欠席した。
- 1979年12月23日未明、田中新太郎が射殺された。草野一家側は結縁式の欠席を「非礼」と受け取ったと考えられ、
以降1981年2月の和解に至るまで、工藤会と草野一家の間で抗争が展開された。
- この項目は書きかけ項目です。
- 役職や名称等、人事の変更などで必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
※誹謗中傷や悪戯、あらし行為、悪質な売名行為、他サイトの宣伝などは厳禁とします。
- 編集される際は「テキスト整形のルール(詳細版)」をご覧ください。
- 編集を依頼される場合
ご利用者様に編集協力を依頼する場合は下記の【このページの編集依頼】または【加筆・編集依頼】から編集対象のページタイトル・編集内容をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。
運営宛に編集依頼するには【メールで編集依頼】から依頼して下さい。
【このページの編集依頼】