川村源吉
川村源吉(通称・肴町源吉)は幕末の侠客。
略歴
- 現在の宮城県仙台市肴町の人。
- 肴町の歴史から見逃す事の出来ないものは昔の火消しである。旧藩時代、仙台の町方火消しは肴町と二日町の二ヶ所に在った。二日町には一組、肴町には守組と下組の二組あって、守組の棟梁に川村源吉親分がいて、六十二万石の伊達家から十手捕縄を預けられた誉れの目明しとして名高い。その子、川村今助親分の事に就いては御承知の通り御一新の時、戊辰戦争が起るや伊達家に対する御奉公はこの秋とばかり火玉のような乾分十六名をすぐって引連れ白河口へ向って肴町を門出する時の勇ましさは今も一つ話になっている。一体この年は五月の曾我の雨から降出して何しろ十月まで降り続けの長雨と云うんだから火縄銃などでは敵す可くもなく、今助親分以下何れも手痛く闘った揚句、安積山の激戦に官軍の中へ花々しく斬込んで全部枕を並べて討死を遂げて了つた。その住居は二丁目渡邉米屋の辺で、墓は東九番丁荒町裏の常念寺に在る。下組の棟梁は斎藤長右衛門、同じく其の子長兵衛で、人呼んで斎長親分と云い、これ亦侠名をとどろかしたものだ。その住居は仙台商工会館の西隣り今の高田質屋がその遺構である。墓は荒町の昌傅庵に在る。
歿年 明治八年六月二十三日 行年五十九歳
墓所 宮城県仙台市東九番丁 常念寺
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