堺町事件
堺町事件は、1981年2月4日に草野一家若頭・大東亜会会長・佐古野繁樹と工藤会理事長・矢坂組組長・矢坂 顕が、互いに銃撃戦を繰り広げ、相撃ちで死亡した事件。
事件の発端
- 1979年12月1日、筑紫野市内にて、草野高明は三代目山口組二次団体・伊豆組組長・伊豆健児と五分の兄弟盃を交わし三代目山口組と関係を深めた。
工藤玄治をはじめ九州全域の親分衆が出席し、工藤会の最高幹部達が出席した中、工藤会若頭・田中新太郎は「敵の山口組と縁を持つんに、なし祝わにゃいけんのや?」と、田中新太郎のみ結縁式を欠席した。
親分の工藤玄治が出席してる最中、田中新太郎のみが反発し、親分の顔に泥を塗るばかりか非礼を欠いた訳である。
- 1980年、愛人宅に居た田中組組長・田中新太郎が、草野一家・極政会組員2名によって射殺された。
総長・草野高明の血縁式を欠席したことに対する反発からと見られ抗争は激化の一途を辿った。
事件の発生
- 1981年(昭和56年)2月4日未明、北九州小倉の堺町にある高級ラウンジクラブ「美松」を出た前で草野一家若頭・大東亜会会長・佐古野繁樹と、工藤会理事長・矢坂組組長・矢坂 顕が偶然鉢合せした。
口論の末、双方が拳銃を乱射、激しい銃撃戦となった。
佐古野繁樹は矢坂組組員に撃たれ倒れながらも、2メートル程度の至近距離から矢坂 顕を銃撃。
二人とも全弾撃ち尽くし、その場で佐古野繁樹と矢坂顕の両名は出血多量で絶命した。
この「堺町事件」から、[[工藤会と[[草野一家の抗争は泥沼化し、当月だけで6件もの発砲事件が発生した。
- 1981年、稲川会会長・稲川聖城の仲裁により小倉北区の妙見会館にて[[工藤会と草野一家の手打ち式が行われ和解した。