坂ノ下実五郎
坂ノ下実五郎(本名:市川実五郎)は幕末の侠客、博徒。大和屋一家二代目。
略歴
- 天保11年(1840年)、甘樂郡南牧村星尾大上坂ノ下の代々名主市川六之助の長男に生まれ、幼名を仙之助と言った。
- 少年の頃から人並はずれて力も度胸もあった。8歳の頃、隣りのおじさんが、信州から馬で米俵を運んで来た。子供たちが集って見ていると、おじさんが冗談に担げたらやるべえといった、すると仙之助は、担いで自分の家まで持っていってしまった。びっくりしたおじさん、謝りに行って取り戻して来たという逸話もある。
- 十代の時、家の金を持ち出し下仁田大崩の大和屋林蔵親分の所に寝泊りし、各地を点々と歩き回り、博奕をしたり、「仙瓢」という四股名で相撲を取ったりしたという。相撲は下仁田近辺では大関格であったが、博奕のほうは弱くホシを背負い林蔵親分が金の催促に行くと、村の鎮守の諏訪神社の境内に案内し、裸になり座り込んで取れるものなら取って行け、と啖呵を切った。度胸のいいのに感心した林蔵親分は仙之助を子分にした。
- やがて、仙之助は林蔵親分の跡目を継ぎ大和屋一家二代目親分となり名を実五郎と名乗り、西上州はもちろん武州秩父、熊谷辺まで、信州は善光寺平、佐久平まで顔が効いた。
- 慶応4年4月、夜の明けぬ午前3時頃、小諸御影陣屋に駐屯していた官軍の磅磚隊(草莽隊)130名が武装して和田宿を包囲した。この宿には年貢半滅闘争に参加した侠客二百余名が民家に分散、宿営していた。朝の6月時、合図によって官軍が一斉に家々に踏み込み、闘争参加者を摘発した。不意を衝かれた侠客たちは抵抗もままならず、ついに武器を没収され、数名が逮捕された。主謀者として狙われていた上州の侠客玉五郎と善松はその場で射殺された。実五郎は名主の惣左衛門の家に宿泊していたが、裏畑に飛出して鉄砲で応戦したが、30名の官軍の前にあえない最期を遂げた。官軍は、午後1時頃、実五郎、玉五郎、善松の遺体を近くの信定寺に投げ込み、意気揚々と引き上げた。和田宿は大騒乱に巻き込まれ、闘争は鎮圧されたが、上州人でありながら、信州の民百姓のために男気を発揮してくれた実五郎らの行動を徳として、和田宿の住民は3人の遺体を懇ろに葬ったという。
- 一周忌には三名連記の墓を建て、大前田一家をはじめ、千名近い参列者がいたと伝えられている。実五郎と子分2人の墓は信州和田宿の信定寺近くの道路脇にある。墓石前面中央に顯岳實道居士(實五郎)、右端に觀應義貞居士(玉五郎)、左端に善覺良喜信士(善松)、の三人の戒名が刻んであり、左側面に上州甘楽郡星尾村 市川實五郎、同郡岩戸村 茂木玉五郎、市川善松、右側面に慶応4年4月7日とある。
- 実五郎の跡目は弟分の大和屋喜十郎こと掛川喜平が継ぐ。