古河多三郎
古河多三郎(こがの たさぶろう、別名・宝田多三郎、生井多三郎、本名・宝田多惣次)は幕末から明治の侠客、博徒。生井一家古河三代目。
略歴
- 上辺見の生れ。
- 25、6歳の頃、辺見貞蔵の子分越後ノ彫常の子分となり、総和町柳橋に住むが、すぐ諸川宿の貸元森田龍助の跡目となり諸川に移る。
- 明治の初め旅に出る。
始めは、信州の屋代へ行き、屋代の多三郎で顔を売る。
後に信州松本へ行き、間之川一家旅人の燕の喜三郎こと鈴木喜三郎、生井一家の半七の三人で斎藤一家に草鞋をぬぎ兄弟分となり、当時、枯れかかった斎藤一家の勢力を取り戻した。
そして越後に帰郷した親分の彫常を頼り越後高田に住んでいたが、明治26、7年頃、間之川一家若林釜内、同一家高橋啓助(後の長野、畑中の貸元)、青木作太郎、森寺森之助の四人をつれて二十数年と言う 長旅から、故郷に立帰り、古河に家を構え生井一家古河三代目を継ぐ。
- 間之川一家松本新五郎と大橋金太郎、生井一家森田龍助と藤井庄蔵墓に刻名あり。
- 明治37年2月23日歿。行年69歳。墓所は茨城県古河市中央の福法寺。
- 多三郎跡目は大場平次が継ぐ。
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