観音寺久左衛門(十代目)
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* 観音寺久左衛門 [#v240a9a1] ''十代目観音寺久左衛門''(かんのんじの きゅうざえもん、本名・松宮雄次郎、若宮雄次郎直秀、松宮勇次郎とも、1826年~1873年)は幕末の侠客、博徒。[[観音寺一家]]三代目。 ** 略歴 [#iad54553] -十代目観音寺久左衛門は、文政9年、博徒・[[観音寺一家]]・九代目[[観音寺久左衛門>観音寺久左衛門(九代目)]]の次男として生まれた。長男(勇左衛門か)は刑死している。 -戊辰戦争には、多くの博徒が参加しているが、多くは利害関係から参加した者が多い中、久左衛門は信念をもって戦いに参戦した特異な人物であった。 -観音寺村は与板藩の領地であったが、久左衛門は幕府から受けた恩義に酬いるため、同盟軍に参加して戦った。 また、故郷の領民からの信義に酬いるため、同盟軍によって領民たちに対し虐待や略奪が起きないよう防いだという。 -戊辰戦争の末期、観音寺久左衛門の命を助けるため、与板藩の家老松下源左衛門が観音寺に早く降伏せよと持ち掛けたといわれる。 -文久2年(1862年)与板藩から用人に任じられ、藩の治安の維持に努めるとともに、出雲崎代官所の御用も務めていた。 また出雲崎代官所が会津藩領となると、会津藩は陣屋の警備を任せていた。 -慶応4年(1868年)3月、観音寺村が北国街道に面する要衝であったことから博徒兵・会津浪人・会津藩正規の兵など、約200人が観音寺久左衛門宅に駐屯した。 -閏4月、同盟軍と新政府軍が交戦状態になると、会津兵と共に越後各地を転戦した。 観音寺久左衛門はその手下47名(聚義隊)を率いて、裏金の陣笠に猩々緋の陣羽織を着て督戦したので、その姿が注目を浴びた。 博徒隊には、水戸藩脱走兵の剣客・斎藤新之助と村上藩脱藩の浪士・遠藤海蔵がいて指揮し勇猛に戦った。 もともとは、故郷から流れて[[観音寺一家]]の下で用心棒として世話になっていた人物たちである。 -5月27日、28日、同盟軍が与板城を攻撃し落城寸前まで追い込んだが、この時久左衛門は桑名藩雷神隊などと陽動作戦を行い、要衝島崎で新政府軍を撃退している。 この後60日間に渡って与板周辺地域での新政府軍との戦いでは、百姓姿に変装し、道案内を装って敵を味方の陣に引き込むなど、奇策を講じて敵兵を翻弄し、奇襲攻撃で活躍した。 -久左衛門は、越後での戦いの後、会津・米沢方面に逃れたが、米沢藩で捕らわれの身となった。 -その後許されて観音寺に帰ったが、広大な屋敷は新政府軍によって焼き払われて既になくなっていた。 -弟の松宮竜太郎は博徒隊(聚義隊)の名簿に名前があったことから、捕縛され分水町の新政府軍屯所で斬首され北国街道に晒されていた。 -久左衛門に対しては、地元民の信頼厚かったことから、維新後与板藩参事から出仕の誘いもあったが、賊軍として戦った身であるからと固辞したという。 -兄弟分に[[高砂屋一家]]三代目・[[高砂屋庄之助]]。 -明治6年(1873年)6月10日、48歳で病没した。新潟県西蒲原郡弥彦村観音寺の松宮家屋敷跡に墓地がある。 ** 検索用 [#e3168219] #ac(h,alt){{ 観音寺久左衛門、観音寺久左衞門、觀音寺久左衛門、觀音寺久左衞門、観音寺ノ久左衛門、観音寺ノ久左衞門、觀音寺ノ久左衛門、觀音寺ノ久左衞門、松宮雄次郎、松宮雄次郎直秀、松宮雄二郎、松宮雄二郎直秀 }} ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 -運営宛に編集依頼する場合は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 -&color(red){''※''};悪質な書き込み、誹謗中傷や悪戯、あらし行為、虚偽内容の依頼については情報開示手続きを取った上で厳正に対処いたします。 ---- 【他の利用者に編集協力を依頼する】 #comment ~
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* 観音寺久左衛門 [#v240a9a1] ''十代目観音寺久左衛門''(かんのんじの きゅうざえもん、本名・松宮雄次郎、若宮雄次郎直秀、松宮勇次郎とも、1826年~1873年)は幕末の侠客、博徒。[[観音寺一家]]三代目。 ** 略歴 [#iad54553] -十代目観音寺久左衛門は、文政9年、博徒・[[観音寺一家]]・九代目[[観音寺久左衛門>観音寺久左衛門(九代目)]]の次男として生まれた。長男(勇左衛門か)は刑死している。 -戊辰戦争には、多くの博徒が参加しているが、多くは利害関係から参加した者が多い中、久左衛門は信念をもって戦いに参戦した特異な人物であった。 -観音寺村は与板藩の領地であったが、久左衛門は幕府から受けた恩義に酬いるため、同盟軍に参加して戦った。 また、故郷の領民からの信義に酬いるため、同盟軍によって領民たちに対し虐待や略奪が起きないよう防いだという。 -戊辰戦争の末期、観音寺久左衛門の命を助けるため、与板藩の家老松下源左衛門が観音寺に早く降伏せよと持ち掛けたといわれる。 -文久2年(1862年)与板藩から用人に任じられ、藩の治安の維持に努めるとともに、出雲崎代官所の御用も務めていた。 また出雲崎代官所が会津藩領となると、会津藩は陣屋の警備を任せていた。 -慶応4年(1868年)3月、観音寺村が北国街道に面する要衝であったことから博徒兵・会津浪人・会津藩正規の兵など、約200人が観音寺久左衛門宅に駐屯した。 -閏4月、同盟軍と新政府軍が交戦状態になると、会津兵と共に越後各地を転戦した。 観音寺久左衛門はその手下47名(聚義隊)を率いて、裏金の陣笠に猩々緋の陣羽織を着て督戦したので、その姿が注目を浴びた。 博徒隊には、水戸藩脱走兵の剣客・斎藤新之助と村上藩脱藩の浪士・遠藤海蔵がいて指揮し勇猛に戦った。 もともとは、故郷から流れて[[観音寺一家]]の下で用心棒として世話になっていた人物たちである。 -5月27日、28日、同盟軍が与板城を攻撃し落城寸前まで追い込んだが、この時久左衛門は桑名藩雷神隊などと陽動作戦を行い、要衝島崎で新政府軍を撃退している。 この後60日間に渡って与板周辺地域での新政府軍との戦いでは、百姓姿に変装し、道案内を装って敵を味方の陣に引き込むなど、奇策を講じて敵兵を翻弄し、奇襲攻撃で活躍した。 -久左衛門は、越後での戦いの後、会津・米沢方面に逃れたが、米沢藩で捕らわれの身となった。 -その後許されて観音寺に帰ったが、広大な屋敷は新政府軍によって焼き払われて既になくなっていた。 -弟の松宮竜太郎は博徒隊(聚義隊)の名簿に名前があったことから、捕縛され分水町の新政府軍屯所で斬首され北国街道に晒されていた。 -久左衛門に対しては、地元民の信頼厚かったことから、維新後与板藩参事から出仕の誘いもあったが、賊軍として戦った身であるからと固辞したという。 -兄弟分に[[高砂屋一家]]三代目・[[高砂屋庄之助]]。 -明治6年(1873年)6月10日、48歳で病没した。新潟県西蒲原郡弥彦村観音寺の松宮家屋敷跡に墓地がある。 ** 検索用 [#e3168219] #ac(h,alt){{ 観音寺久左衛門、観音寺久左衞門、觀音寺久左衛門、觀音寺久左衞門、観音寺ノ久左衛門、観音寺ノ久左衞門、觀音寺ノ久左衛門、觀音寺ノ久左衞門、松宮雄次郎、松宮雄次郎直秀、松宮雄二郎、松宮雄二郎直秀 }} ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 -運営宛に編集依頼する場合は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 -&color(red){''※''};悪質な書き込み、誹謗中傷や悪戯、あらし行為、虚偽内容の依頼については情報開示手続きを取った上で厳正に対処いたします。 ---- 【他の利用者に編集協力を依頼する】 #comment ~
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