#author("2023-05-02T01:04:19+09:00;2023-02-26T22:00:46+09:00","","")
* 鬼神喜之助 [#r92f08ab]
''鬼神喜之助''(おにがみ きのすけ、本名・橘田喜之助か)は幕末の侠客、博徒。甲州博徒。
** 略歴 [#k1ab09bb]
-甲府市川大門の人。
-文政5年(1822年)、市川大門の橘田恒右衛門の四男に生まれる。[[小天狗亀吉]]は末弟。
-橘田家は松坂屋という屋号の裕福な商家で、[[竹居安五郎]]と懇意にしていた。
また松坂屋は沼津の河岸の者を相手にする商売で、店の者が喧嘩で怪我をしないよう、護身目的で屋敷内に道場を作り、旅の浪人に剣術、柔道の手ほどきをしてもらっていた。喜之助、亀吉兄弟も剣術は相当の腕前であった。
-鰍沢の賭場で[[三井卯吉]]、[[祐天仙之助]]と知り合い、[[祐天仙之助]]と兄弟分の話を持ちかけられるが、目明かしの卯吉や山伏上がりの仙之助を見下し断ったため、二人と対立するようになった。
-[[三井卯吉]]、[[祐天仙之助]]は喜之助を味方に引き入れ、かねてから対立している鰍沢の賭場を仕切る[[竹居安五郎]]の勢力を抑えようと考えていた。
-弘化3年(1846年)4月、鰍沢で[[竹居安五郎]]の食客・用心棒の浪人・[[桑原来助]]が[[祐天仙之助]]と[[津向文吉]]に殺害された。
-その後喜之助は身延の賭場の帰り、[[祐天仙之助]]と偶然顔を合わせた。祐天は子分4人を連れていた。喜之助の連れは松坂屋の番頭一人だけ。仙之助らは喜之助を取り囲み斬りかけてきた。そこに一軒の空き家があり、喜之助は空き家を背に斬り合いが始まった。斬り合いで喜之助の髪の元結いがほどけ、ザンバラ髪になった。そこで仙之助の子分の一人が空き家に火を放った。火の手を背後に立ちはだかる喜之助の姿は、鬼神のようだった。村の番人が火事に気が付き、駆け付けたため、喜之助は事なきを得た。ここから鬼神喜之助の異名がついた。
-別の説では嘉永7年4月8日、鬼神喜之助と子分18人が駿河国吉原で[[祐天仙之助]]と喧嘩し敗北したとする。
-[[祐天仙之助]]が[[吉原留吉]]を殺害したことの報復として、また[[竹居安五郎]]が捕縛され島流しになり、[[竹居一家]]が衰退していたことから、喜之助、亀吉は仙之助の殺害を計画する。
-安政4年(1857年)1月4日夜、仙之助が甲府山田町の卯吉の隠居宅に泊まるという情報を得て、喜之助、亀吉は安五郎子分の応援とともに11人で隠居宅を襲った。仙之助の姿はなく、卯吉と妾が寝ているのを、仙之助の身替りとして二人を殺害。卯吉の首を斬り落とし、市川に持ち帰った。
-橘田家では喜之助、亀吉を逃がすことに決定。
-喜之助は武州から上州を転々とし、宇都宮で病死した。宇都宮宿の菓子屋の世話になり、死ぬまで美人の女性が身近で面倒をみたという。
-墓所は西八代郡市川三郷町市川大門にあり、「松坂屋・鬼神喜之助・慶蔵の墓」大正2年3月21日建立とある。
----
検索:松坂屋喜之助
----
-この項目は書きかけ項目です。
-役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
※誹謗中傷や悪戯、あらし行為、悪質な売名行為、他サイトの宣伝などは厳禁とします。
-編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。
-編集を依頼される場合、他のユーザーに編集協力を依頼する時は下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。
運営宛に編集依頼する時は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。
----
【このページの編集依頼】

#comment
~

トップ   編集 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS