#author("2024-11-28T22:31:25+09:00","","") #author("2024-11-28T23:00:09+09:00","","") * 角屋彦兵衛 [#te00a103] ''角屋彦兵衛''(かどや ひこべえ、通称・角彦、別名・八王子彦兵衛、本名・原彦兵衛)は幕末の侠客、博徒。 ** 略歴 [#lc8f5f38] -もとは日野宿の生まれで為吉といった。宿年寄を務めた玉屋栄蔵の血縁か。 -嘉永2年(1849年)、[[小金井小次郎]]の兄・寅吉、小次郎子分の[[稲荷増五郎]]、[[矢端藤蔵]]ら12人が深大寺の賭場で役人に捕縛されると、小次郎から懇願され、八州廻りに働きかけることで彼らの身柄の解放を成功させる。 -嘉永4年(1853年)には、八王子在子安村において、[[東中野小才次]]の催す山賭博(一晩で1000両が動くとされた)に参加中役人の手入れに遭い捕縛される。その後の裁きで追放刑を受け、再び無宿者となった。 -なおこの件で同じく捕まり、獄死した小才次の墓を[[一ノ宮万平]]、[[小金井小次郎]]、[[大塚勘五郎]]らと連盟で東中野村善徳寺に建てている。 -表稼業としては、八王子横山宿の北通りに旅籠屋「角屋」を経営し、そこの主人として宿内にも顔が利く人当たり良い人物であったが、実体は当時多摩地域でも五本指に入る親分であったと考えられる。無宿者となった後は、表向き倅の栄吉に家業を継がせている。 -安政5年3月17日の夜、[[大塚勘五郎]]ら4、5人に突如殴り込みをかけられ死亡。行年44歳。 -倅の栄吉が日野の宝泉寺に葬った。現在も同寺に墓石が残る。法名は通叟義徹居士。 この墓は妻せきの死亡時に建てられ、墓碑正面には両名の名が刻まれている。 墓石の位置から建てたのはあるいは明治の侠客[[天野要蔵]]とも考えられる。 ** 検索用 [#gf9aeb90] #ac(h,alt){{ 八王子ノ彦兵衛、八王子角彦、八王子彦兵衛、 }} ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 -運営宛に編集依頼する場合は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 -&color(red){''※''};悪質な書き込み、誹謗中傷や悪戯、あらし行為、虚偽内容の依頼については情報開示手続きを取った上で厳正に対処いたします。 ---- 【他の利用者に編集協力を依頼する】 #comment ~すみません。以前他の場所で「銀蔵」と書き込んだ者です。あれは「為吉」の間違いでした。 ~