#author("2024-10-21T21:52:48+09:00;2024-04-28T22:26:00+09:00","","") #author("2024-10-21T21:53:16+09:00;2024-04-28T22:26:00+09:00","","") * 荊原和太郎 [#je3f6feb] ''荊原和太郎''(ばらはらの わたろう、本名・谷部和太郎、別名・谷部太右衛門)は幕末から明治の侠客、博徒。[[寺谷一家]]四代目。 ** 略歴 [#l4694b56] -武蔵国足立郡荊原の人。 -天保5年(1834年)5月1日または天保8年(1837年)8月、[[久下長八]]こと谷部太右衛門の長男に生まれる。 -親子二代続で大親分で[[荊原一家>寺谷一家]]として鳴らした。 -[[寺谷善太夫]]の子分となる。 -[[前砂勇吉]]跡目。 -明治20年頃、池上の親分で鉄の棒と異名を取った新井某は、[[荊原一家>寺谷一家]]と仲悪く久しくもめていた。 ある夜鉄の棒は熊谷からの帰途池上にさしかかると、小さな橋下に[[荊原一家>寺谷一家]]の者が忍び居り鉄の棒を殺害した。 この事件の犯人は一切不明に終わったことから、[[荊原一家]]が目明しとして警察に強力していたことが伺える。 -[[寺谷一家]]供養碑に施主谷部和太郎事改名谷部太右衛門建立、小山市[[間之川一家>間ノ川一家(群馬県)]]・[[佐山森之助]]墓に世話人武州下久下・谷部太右衛門、[[前砂勇吉]]墓に荊原・和太郎とある。 -静岡[[安東一家]]・[[小野田与市>上ヶ土与市]]の香典帳に金弐拾円武州[[寺谷一家]]和太郎若者中とある。 -明治30年11月17日または明治31年閏11月17日病没。行年63歳または60歳。墓所は埼玉県北足立郡吹上町荊原の谷部家墓地。 -谷部和太郎墓が[[寺谷一家]]前三代親分の墓と並んで建てられる。墓前面に谷部和太郎之墓とあり、裏側に谷部和太郎翁通称太右衛門。天保八年八月を以て生まれる。荊原の家なり。明治三十一年閏十一月十七日病を以て歿す。年齢六十才。とある。 -跡目は小敷田久五郎が継ぐ。 -平成3年18月、[[寺谷一家]]十一代目総長・佐藤正剛が、[[寺谷一家]]三侠碑と和太郎墓を川里村屈巣の円通寺に移し新たに「任侠之碑」を建之して供養した。 ** 検索用 [#j278ce65] #ac(h,alt){{ }} ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 -運営宛に編集依頼する場合は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 -&color(red){''※''};悪質な書き込み、誹謗中傷や悪戯、あらし行為、虚偽内容の依頼については情報開示手続きを取った上で厳正に対処いたします。 ---- 【他の利用者に編集協力を依頼する】 #comment ~