#author("2024-11-28T23:03:51+09:00","","") #author("2024-11-28T23:04:45+09:00","","") * 稲荷増五郎 [#s6fed5c3] ''稲荷増五郎''(いなりの ますごろう)は幕末の侠客、博徒。 ** 略歴 [#y9d4193e] -武蔵国田無宿の人。 -父は升蔵で[[銚子五郎蔵]]の兄弟分。 -屋敷の隣に笠森稲荷があったことから、近隣では通称を「稲荷様」と呼ばれた。 -田無宿のっ顔役として知られ、増五郎が出ればどんな争いも収まると言われた。 -田無宿の顔役として知られ、増五郎が出ればどんな争いも収まると言われた。 -[[小金井小次郎]]の兄弟分。増五郎の方が6つ年上であるが、温厚な性格のため五分の盃を交わした。 -倅は竹次郎(別名・長四朗)も晩年は増五郎を名乗り、[[小金井小次郎]]の弟分となる。 -小次郎の四天王と呼ばれる[[田無徳蔵]]は、元々は増五郎の子分で、後に小次郎の腹心となったと言う。 -嘉永2年(1849)、秋津村(東村山市)の祭礼賭博の際、[[小川幸八]]の元子分・[[恋ヶ窪彦太郎]]、[[大沼田新田政五郎]]ら9人の刺客に襲撃をかけられ、仲間の[[野中村音五郎]]と共に重傷を負う。増五郎は足を鑓で貫かれたが命に別状はなかった。 -高潔で自然体な人柄で知られ、慶応2年(1866)6月の武州一揆の際には、田無宿の大総代兼名主を務めた田無村半兵衛から、蓄財の1000両が入った甕を預り、暴徒からそれを守る。やがて事件が終わると、何食わぬ顔で全額そのまま半兵衛に返却し、そのまま立ち去ろうとした。半兵衛がお礼を申し出ると断り、それでもと言うと、「では今後、私の開く賭場に目をつぶってください」とのみ返した。以降増五郎の賭場には役人の手入れが入らなかったと言う。 -倅竹次郎も後年「増五郎」を名乗り、侠客として知られた。 -慶応3年、[[陣屋三之助]]の若衆が境村の若者と諍いを起こした際には、三之助の助っ人として軍勢に加わり、若者たちを杵築神社の境内まで追い詰め詫びを入れさせた面々の中に竹次郎が加わっている。 -かつて子孫宅に増五郎愛用のピストルが残っていたが、ある代に柳沢の道具屋(質屋)へ流してしまったとの話が残っている。 ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 -運営宛に編集依頼する場合は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 -&color(red){''※''};悪質な書き込み、誹謗中傷や悪戯、あらし行為、虚偽内容の依頼については情報開示手続きを取った上で厳正に対処いたします。 ---- 【他の利用者に編集協力を依頼する】 #comment ~