#author("2024-12-07T14:07:10+09:00","","") #author("2024-12-07T22:24:01+09:00","","") * 田中屋万五郎 [#u6561112] ''田中屋万五郎''(たなかや まんごろう、本名・長谷部万五郎、1796年-1870年)は幕末の侠客、目明し。別名に内藤新宿万五郎、府中宿万五郎。 ** 略歴 [#c9a2bb07] -寛政8年(1796年)、武州新座郡大和田町(現在の埼玉県新座市)の長谷部家に生まれる。弟に平五郎が居た。 大和田町は川越街道にあって物資の輸送を司る宿場であり、旅人が足しげく往来した。 -万五郎は、天保年間以来、八州回りの居住地である内藤新宿(現在の新宿)中に盤踞し、弘化4年(1847年)には府中本町に遊女屋「田中屋」を開いて地盤を固め、更に故郷大和田町にも借居を構え、当時武州の岡っ引親分として威光は相当なものだった。 -天保15年(1845年)、実質上岡っ引きが給金制度になるに及び、中野組合、北沢組合、大和田組合、青梅組合の4か所で同時に雇われていることからも、その勢力が伺える。 -子分に[[府中丑五郎]]、[[新宿定吉]]、[[飯能森太郎]]、[[大和田藤蔵]]、[[練馬万次郎]]、[[板橋馬之助]]、[[田無万吉]]、[[青梅吉五郎]]、[[川越藤吉]]、[[片山仙蔵]]等がいた。 -万五郎は、天保年間以来、八州回りの居住地である内藤新宿(現在の新宿)中に拠点を移し、弘化4年(1847年)には府中本町に遊女屋「田中屋」を開いて地盤を固め、更に故郷大和田町にも借居を構え、当時武州の岡っ引親分として威光は相当なものだった。 -甲州道中(甲州街道)の問屋場取締役・高松喜六を後ろ盾に持ち勢力を伸張させる。同じく甲州道中・甲府屋柳町の顔役[[三井卯吉]]とは兄弟分として親しく交際した。 -天保15年(1845年)、実質上岡っ引きが給金制度になるに及び、中野組合、北沢組合、大和田組合、青梅組合の4か所で同時に雇われていることからも、その勢力が窺える。 -子分に[[府中丑五郎]]、[[新宿定吉]]、[[飯能森太郎]]、[[大和田藤蔵]]、[[練馬万次郎]]、[[板橋馬之助]]、[[田無万吉]]、[[青梅吉五郎]]、[[川越藤吉]]、[[片山仙蔵]]、[[坂ノ下寅五郎]]等がいた。 -勢力は、北は桶川、南は府中、東は内藤新宿、西は青梅と広範囲に渡った。 -府中宿に居を構えた[[小金井小次郎]]を可愛がり、終始便宜を計ったため、小次郎から「本町旦那様」と信頼された。安政3年(1856年)、小次郎が三宅島へ遠島になるに及び、家族と子分衆の行く末を万五郎に頼む書状が残っている。 -甲州の[[三井卯吉]]とは兄弟分の間柄であり、[[祐天仙之助]]からは「伯父貴」と呼ばれた。 -[[三井卯吉]]と兄弟分の間柄である関係から、[[祐天仙之助]]に「伯父貴」と呼ばれた。 -明治3年2月11日死去。75歳。墓は新座市大和田の普光明寺。 ** 検索用 [#ue8e3698] #ac(h,alt){{ 田中屋ノ万五郎、長谷部万五郎、長谷部萬五郎、田中屋萬五郎、田中屋ノ萬五郎 }} ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 -運営宛に編集依頼する場合は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 -&color(red){''※''};悪質な書き込み、誹謗中傷や悪戯、あらし行為、虚偽内容の依頼については情報開示手続きを取った上で厳正に対処いたします。 ---- 【他の利用者に編集協力を依頼する】 #comment ~