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* 波谷守之 [#wbe7f51e]
''波谷守之''(はだに もりゆき、1929年11月28日 - 1994年11月2日)は日本のヤクザ。[[波谷組]]組長。元・三代目[[山口組]]若頭補佐・[[菅谷政雄]]舎弟。
** 人物像 [#l74c5b0e]
-最後の博徒、天一坊と呼ばれた。
-日本国内で1、2位と言われる程、正常な心理者が驚愕する桁違いの大金を賭け、勝っても負けても眉一つも動かさず、
その所作を見た者は、漢惚れする位の姿だったという。かつては三代目[[山口組]]若頭補佐・[[菅谷政雄]]もその一人であり、
[[稲川会]]会長・[[稲川聖城]]をはじめ、後の四代目[[山口組]]組長・[[竹中正久]]は、「波谷の博打は間違いなく日本一や」と認めていた。
-あくまで勝負師であり、己の意思で主催者としての賭場は開かなかった。
-金沢刑務所を出所した波谷を、いち早く取材した某芸能週刊誌の特集で述べていたが、例え徹夜博打で十億近い金額を波谷が勝利しても、
額面を用意出来ない主催者に対し追い込まず、また別の賭場で逆に波谷が大負けしても、主催者は決して波谷を追い込みしなかったという。
いずれも数日中にぎっしりと札束が詰まれた段ボール箱、旅行バック数個が届けられ、同じく波谷も逆に同じように届けるという。
これは特定の誰が決めたルールでもなく、波谷の場合はそうなっていたようである。
-誌面や人伝で聞いても、波谷にはこの様な巨額の博打によるトラブル等は一切無かった。そんな所以から、「最後の博徒」と言われたのかもしれない。
-元[[山口組]]顧問弁護士の山之内幸夫氏の逸話話しとして、ある日、北新地の日本料理本店で映画監督である正延氏との打ち合わせをした時、
偶然にも特別席に波谷が来店していると聞き、同席したことがあるという。
偶然にも店舗二階の特別席に波谷が来店していると聞き、同席したことがあるという。
噂では聞いていた通り高級な着流しを着て、波谷は終始多くを語らず常に前で腕を組み、笑顔でその空間を楽しんでいたという。
** 略歴 [#wdfd8a8b]
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-広島県呉市阿賀町出身。
-1945年(昭和20年)3月、広島市の博徒・[[渡辺長次郎]]の若中となった。
-同年12月、米軍による原爆投下により親分である[[渡辺長次郎]]が死亡し、[[土岡組]]の組長である[[土岡博]]の舎弟となり[[土岡組]]の若中になる。
-1946年(昭和21年)3月、土岡博の舎弟・[[大西政寛]](通称・悪魔のキューピー)が中国から復員し、[[土岡組]]に加入した。この頃の広島県呉市の[[山村辰雄]](後の初代共政会会長)が[[山村組]]の看板を掲げ、進駐軍の木材運搬を行い経済力をつけていった。
-1954年(昭和29年)10月、広島県に[[山村組]]組長と若頭の[[佐々木哲彦]]の主導権争いに巻き込まれ(仁義なき戦い)、山村派[[小原組]]組員・[[平尾一三]]は碁会所から出てきた[[波谷守之]]の実父、[[波谷吾一]]を射殺した。[[土岡組]]幹部・[[波谷守之]]は拘留中であった。
-1961年(昭和36年)、波谷は大阪に戻り大阪市南区黒門市場に家を借りた。元[[土岡組]]・折見誠三、河面清志、藤島章三、平畠行人、池田孝志、松本武、面寿一、向和敏、前原忠之、久山勝次、上野安芸男、平本隆広、松本八重子が集まった。
-同年、道子と結婚した。
-同年、[[松本武]]が、パチンコ店で、愚連隊[[互久楽会]]の若衆と喧嘩になり、[[菅谷組]]・[[浅野組>浅野組(安達組)]]事務所に逃げ込んだ。[[互久楽会]]の若衆は、[[山口組]]の代紋が入った看板を叩き割った。[[波谷守之]]は[[菅谷政雄]]に会い、看板が割られた件を謝罪した。[[菅谷政雄]]は「看板は、また作ればいいだけのこと」とし、[[波谷守之]]を不問とした。
-1970年(昭和45年)11月、[[波谷守之]]は、三代目[[山口組]]若頭補佐[[菅谷政雄]]の舎弟となった。
-1977年(昭和52年)1月、[[菅谷政雄]]は、秘密裏に三代目[[山口組]]直系昇格を進めていた[[菅谷組]]内[[川内組]]組長[[川内弘]]を破門とした。これをきっかけとして、[[三国事件]]が勃発した。
-同年1月、[[三国事件]]に関与した組員の中に[[波谷組]]組員が参加していたことで逮捕状を出した。
-同年8月31日午後9時過ぎ、阿倍野署の刑事2人は、[[波谷守之]]を殺人・銃刀法違反・火取法違反容疑で逮捕した。冤罪の始まりである(三国事件)。
-1981年(昭和56年)11月25日、兄貴分である元三代目[[山口組]]若頭補佐・[[菅谷組]]組長の[[菅谷政雄]]が67歳で死去。その頃の波谷は冤罪により拘禁中であり、懲役20年を宣告され裁判で戦っていた。
-1984年(昭和59年)9月13日、長い年月を費やして無罪を勝ち取った[[波谷守之]]は、金沢刑務所を出た。
-1985年(昭和60年)波乱万丈の人生で、山下耕作監督「最後の博徒」のモデルになったのが[[波谷守之]]である。
-1987年(昭和62年)11月24日、[[菅谷政雄]]の7回忌が行われた。[[波谷守之]]の交渉で、午前中には、[[一和会]]関係者が焼香し、午後には[[山口組]]関係者が焼香した。
-1990年6月28日夜、[[山波抗争]]が勃発。
-1994年(平成6年)11月2日、[[波谷守之]]は、大阪市阿倍野区の自宅で こめかみを拳銃で撃って自殺した。享年65。
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