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* 国定忠治 [#g57ede13]
''国定忠治''(くにさだの ちゅうじ、忠次とも、本名・長岡忠次郎、1810年 - 1851年1月22日)は幕末の侠客、博徒。現在の[[国定一家>上州国定一家]]初代。
** 略歴 [#z04e1f58]
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-国定は上野国佐位郡国定村に由来する。
-上野国佐位郡国定村(旧、佐波郡東村国定地区、現在の群馬県伊勢崎市国定町)の豪農の家に生まれる。国定村は赤城山南麓の村で、生業は米麦栽培のほか農間余業として養蚕も行われており、長岡家でも養蚕を行っている。長岡家の菩提寺である養寿寺の墓碑によれば父は、国定村の百姓与五左衛門、母は弘化2年(1845年)5月14日に死去。
-文政2年(1819年)5月20日、父与五左衛門が死亡したため、忠治は青年期に無宿となり、家督は弟の友蔵が継ぐこととなった。
-弟の友蔵( - 明治11年(1878年))は養蚕のほか糸繭商を興し、無宿となった忠治を庇護している。忠治や友蔵は長岡家の菩提寺である養寿寺で寺子屋を開く住職貞然に学んでいると考えられており、養寿寺には友蔵の忠治宛金借用証文も残されている。
-1827年10月、[[百々紋次]]の子分となる。
-1830年9月、[[百々紋次]]が病に倒れ、跡目を継ぐ。
-また、忠治は上州勢多郡大前田村(群馬県前橋市)の博徒[[大前田英五郎]]の縄張りを受け継いで百々村(どうどうむら)の親分となり、日光例幣使街道、間宿の境町を拠点とする博徒で英五郎と敵対する[[島村伊三郎]]と対峙する。
忠治は伊三郎の縄張りを荒らし捕らえられたが、伊三郎から助命された。
-しかし忠治は伊三郎に怨恨を抱き、子分の[[三木文蔵]]が伊三郎の一派と諍いをおこしたのをきっかけとして、天保5年(1834年)、忠治は伊三郎を殺しその縄張りを奪うと、一時関東取締出役の管轄外であった信州へ退去し、上州へ戻ると一家を形成する(赤城録では、水滸伝に模して[[日光円蔵]]ら忠治股肱の子分を紹介している)。
-その後、日光例幣使街道の玉村宿を本拠とする[[玉村京蔵]]・主馬兄弟と対立し、天保6年(1835年)には玉村兄弟が山王堂村の民五郎([[山王民五郎]])の賭場を荒らしたことを発端に対立が激化、[[山王民五郎]]に子分二人を差し向けて玉村兄弟を襲撃し駆逐する。
-また、忠治はこの頃発生していた天保飢饉に際して盗区の村々への賑救を行うと称し桐生の商家数件に押し入り現金を奪うとともに商家の娘数人を強姦することを繰り返した。
-施しの記録としては子供の頃から知る老婆に銀1枚を与えた話が残っている。
-天保9年(1838年)、世良田の賭場が関東取締出役の捕手により襲撃され[[三木文蔵]]が捕縛され、忠治は文蔵奪還を試みるが失敗し、関東取締出役の追求が厳しくなったため逃亡する。
-忠治は文蔵に加え子分の[[神崎友五郎]]や[[八寸才助]]らも処刑され一家は打撃を受けた。
-更に天保12年(1841年)には忠治の会津逃亡中に[[玉村主馬]]が[[山王民五郎]]を殺害して反撃にでると、翌天保13年に忠治は帰還し主馬を殺害する(この際に忠治は子分に「洋制短銃」を持たせている)。
-関東取締出役は天保10年に出役の不正を摘発し人員を一新して体制の強化を図り忠治の捕獲を試みているが、天保13年8月に忠治は道案内(目明し)の[[三室勘助]]・太良吉親子を殺害し、勘助殺しにより中山誠一郎ら関東取締出役は警戒を強化し忠治一家の一斉手配を行う。
-また、天保13年には老中・水野忠邦が将軍徳川家慶による日光参詣を67年ぶりに企図し、同年4月13日から4月21日にかけて実施された。これに伴い博徒・無宿の取り締まりを強化した。
-忠治は信州街道の大戸(後の群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所を破り会津へ逃れるが、[[日光円蔵]]や浅次郎らの子分を失っている。
-忠治は弘化3年(1846年)、上州に帰還するがこの頃には中風を患い、嘉永2年(1848年)には跡目を子分の[[境川安五郎]]に譲る。
-忠治は上州に滞在し盗区において匿われていたが、翌嘉永3年8月24日(1850年9月29日)には田部井村名主家において関東取締出役によって捕縛され、一家の主要な子分も同じく捕縛された。
-捕縛後は江戸の勘定奉行池田頼方の役宅に移送され取調べを受け、小伝馬町の牢屋敷に入牢。博奕・殺人・殺人教唆等罪名は種々あったが、最も重罪である大戸関所の関所破りにより時の勘定奉行・道中奉行池田頼方の申し渡しによって上野国吾妻郡大戸村大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)に移送され、大戸処刑場で磔の刑に処せられる。享年41歳。
-忠治の遺体は三日間晒された後に取り捨てられた。
首を含めた遺体は何者かに盗まれ、国定村の養寿寺住職・法印貞然の「一札」によれば、貞然は忠治の首を密かに寺に貰い受け、供養したという。その後、関東取締出役が探索を強化し、貞然は忠治の首を再び掘り起こすと別の場所に秘匿したという。
貞然の「一札」によれば、戒名は「長岡院法誉花楽居士」。
-忠治の十三回忌にあたる文久元年(1861年)には貞然が死去し、同年9月には大戸村の土屋重五郎・本宿村もしくは大柏木村の霞藤左衛門を世話人として、大戸刑場跡に忠治地蔵が造立された。
-忠治の十三回忌にあたる文久元年(1861年)には貞然が死亡し、同年9月には大戸村の土屋重五郎・本宿村もしくは大柏木村の霞藤左衛門を世話人として、大戸刑場跡に忠治地蔵が造立された。
また、群馬県伊勢崎市曲輪町に所在する善應寺には忠治の妾・菊池徳が造立した「情深墳」があり、忠治の戒名を「遊道花楽居士」としている。
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**主な配下 [#te3f2aa2]
***軍師 [#ta2ab1b7]
[[日光円蔵]]
***四天王 [#t1159702]
[[三木文蔵]]
[[下植木浅次>下植木浅次郎]](割板浅次)
[[五目牛千代松]]
甲州無宿新十郎
***七天狗 [#r593e633]
[[八寸才市]]
[[山王民五郎]]
[[境川安五郎]]
鹿安
桐晁
秀吉
桐生町屋ノお辰
** 検索用 [#hbf75f27]
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国定忠治、国定忠次、国定忠治郎、国定忠次郎、國定忠治、國定忠次、國定忠治郎、國定忠次郎、国定村忠治、国定村忠次、国定村忠治郎、国定村忠次郎、國定村忠治、國定村忠次、國定村忠治郎、國定村忠次郎、国定ノ忠治、国定ノ忠次、国定ノ忠治郎、国定ノ忠次郎、國定ノ忠治、國定ノ忠次、國定ノ忠治郎、國定ノ忠次郎、国定村ノ忠治、国定村ノ忠次、国定村ノ忠治郎、国定村ノ忠次郎、國定村ノ忠治、國定村ノ忠次、國定村ノ忠治郎、國定村ノ忠次郎、長岡忠次、長岡忠次郎、長岡忠治、長岡忠治郎
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