#author("2024-11-27T02:00:15+09:00","","") #author("2024-11-27T08:33:00+09:00","","") * 北熊実左衛門 [#b74cd182] ''北熊実左衛門''(きたくまの じつざえもん、本名・近藤実左衛門)は幕末の侠客、博徒。[[水野吉五郎]]の子分、跡目。[[北熊一家]]初代。 ''北熊実左衛門''(きたぐまの じつざえもん、本名・近藤実左衛門)は幕末の侠客、博徒。[[水野吉五郎]]の子分、跡目。[[北熊一家]]初代。 ** 略歴 [#q1838b13] -尾張国愛知郡北熊村(現在の長久手市北熊)の人。 -文政8年(1825年)8月1日生まれ。文政6年、生まれとも。父は村一番の資産家である実右衛門で、姉が9人おり10子として生まれる。9人の姉の嫁入り支度の支出と、父が尾張米を三河に売るという当時の国禁を犯したため家は傾いた。 -力士都島勝五郎に弟子入りする。その後創客柿内兵内の門に入り剣を磨く。 -尾張藩剣術指南役柿沼平内から念流を学び目録を受けたほどの剣術の使い手であった。後に尾張藩校明倫堂の剣術世話役となった。 -25歳の頃、岩作の親分直蔵の娘を女房にする。 -ある時舅直蔵が付近の親分太郎七とその子嘉十に殴られ、その仇を討たんと殴りこむが返り討ちにあって重症を負う。しかし翌日平然と農作業に従事していた。 -この話を聞いた[[水野吉五郎]]はその腕力と豪胆さに惚れ込み子分になるよう請う。27歳の時子分となる。 -博徒調査資料には[[水野吉五郎]]の子分で勇猛にして横暴とある。 -明治初年頃(嘉永5年とも)、[[水野吉五郎]]の跡目を継ぐ。 別説では安政4年、30歳にして他の古参子分を差し置き吉五郎から跡目を譲られた。 -元治元年、水野陣屋からの特命で水戸脱藩武田薫の斥候を命ぜられ、実左衛門他子分十余人は軍夫または雇人に化け詳細を探って報告した。 その功により苗字帯刀を許され近藤実左衛門と称す。 -明治維新の際、大目付渡辺鉞次郎に召し出され命を受け尾張侯の越後隊へ加わり、また自身の隊を集義隊とし会津戦争へ行った。その際費場所を同じ[[水野吉五郎]]子分[[今村伊三]]へ預けた。同じく[[水野吉五郎]]子分の[[瀬戸愛吉]]は自分より格下の[[今村伊三]]へ費場所を預けられたことに不満を持っていた。 -戦争より帰ると親分の吉五郎一家を名乗らず自身の住居である愛知郡北熊村(現在の長久手市北熊)をとり[[北熊一家]]を名乗った。 -これに対し[[瀬戸愛吉]]は北熊実左衛門と絶縁し、自身の住居である東春日井郡瀬戸村(現在の瀬戸市の一部)より[[瀬戸一家]]を名乗った。[[北熊一家]]と[[瀬戸一家]]は大いに勢力を争った。 -[[信濃屋一家]]・[[信濃屋喜兵衛]]と兄弟分。 -[[五明一家]]・[[五明常八]]、[[信濃屋一家]]・[[吉田久三郎>信濃屋久三郎]]と兄弟分とも。 -[[岡島一家]]・[[岡島次郎吉]]は舎弟。 -[[信濃屋喜兵衛]]墓に発起人近藤實左衛門とある。 -明治36年旧5月10日または6月5日没。行年79歳。墓所は長久手村北熊の共同墓地。 ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -他のユーザーに編集協力を依頼する場合は、下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 -運営宛に編集依頼する場合は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 -&color(red){''※''};悪質な書き込み、誹謗中傷や悪戯、あらし行為、虚偽内容の依頼については情報開示手続きを取った上で厳正に対処いたします。 ---- 【他の利用者に編集協力を依頼する】 #comment ~