#author("2021-04-12T18:01:30+09:00","","")
* 観音寺久左衛門 [#v240a9a1]
&size(16){''観音寺久左衛門''(かんのんじの きゅうざえもん、本名:松宮雄次郎、1826年~1873年)は幕末の侠客、博徒。[[観音寺一家]]親分。};
** 略歴 [#iad54553]
-観音寺一家は上州、越後一円に数百人の勢力を有する博徒であり、勢力は数万石の藩に相当する戦闘員の動員力を持っていた。
博徒集団は、武器を携行し、親分子分の関係によって強い結びつきをもっていたため、支配者にとって情報の収集や犯罪者の探索にきわめて有効で、会津藩、長岡藩、与板藩など各藩は味方に引き入れようとしていた。 
#author("2023-02-20T03:02:16+09:00","","")
*観音寺久左衛門 [#rf9c7dc8]

-観音寺久左衛門は、博徒・観音寺一家九代目・久左衛門の次男として生まれた。(長男は刑死している。)
-観音寺一家は越後の出雲崎を縄張りとして博奕場を開いていた。 
-久左衛門は、博徒の親分であったが、信義を守り、人望熱く学問もあり、その道では全国的に名を知られ、江戸の幡隨院長兵衛に比肩される存在であった。
戊辰戦争には、多くの博徒が参加しているが、多くは利害関係から参加した者が多い中、久左衛門は信念をもって戦いに参戦した特異な人物であった。 
観音寺村は与板藩の領地であったが、久左衛門は幕府から受けた恩義に酬いるため、同盟軍に参加して戦った。
また、故郷の領民からの信義に酬いるため、同盟軍によって領民たちに対し虐待や略奪が起きないよう防いだという。
-戊辰戦争の末期、観音寺久左衛門の命を助けるため、与板藩の家老松下源左衛門が観音寺に早く降伏せよと持ち掛けたといわれる。 
-文久2年(1862年)与板藩から用人に任じられ、藩の治安の維持に努めるとともに、出雲崎代官所の御用も務つとめていた。
また出雲崎代官所が会津藩領となると、会津藩は陣屋の警備を任せていた。
-慶応4年(1868年)3月、観音寺村が北国街道に面する要衝であったことから博徒兵・会津浪人・会津藩正規の兵など、約200人が観音寺久左衛門宅に駐屯した。 
-閏4月、同盟軍と新政府軍が交戦状態になると、会津兵と共に越後各地を転戦した。
観音寺久左衛門はその手下47名(聚義隊)を率いて、裏金の陣笠に猩々緋の陣羽織を着て督戦したので、その姿が注目を浴びた。
博徒隊には、水戸藩脱走兵の剣客・斎藤新之助と村上藩脱藩の浪士・遠藤海蔵がいて指揮し勇猛に戦った。
もともとは、故郷から流れて、観音寺一家の下で用心棒として世話になっていた人物たちである。
-5月27日、28日、同盟軍が与板城を攻撃し、落城寸前まで追い込んだが、この時久左衛門は桑名藩雷神隊などと陽動作戦を行い、要衝島崎で新政府軍を撃退している。
この後、60日間に渡って与板周辺地域での新政府軍との戦いでは、百姓姿に変装し、道案内を装って敵を味方の陣に引き込むなど、奇策を講じて敵兵を翻弄し、奇襲攻撃で活躍した。 
久左衛門は、越後での戦いの後、会津・米沢方面に逃れたが、米沢藩で捕らわれの身となった。
-その後、許されて観音寺に帰ったが、広大な屋敷は新政府軍によって焼き払われてすでになくなっていた。
弟の松宮竜太郎は博徒隊(聚義隊)の名簿に名前があったことから、捕縛され分水町の新政府軍屯所で斬首され北国街道にさらされていた。 
久左衛門に対しては、地元民の信頼厚かったことから、維新後与板藩参事から出仕の誘いもあったが、賊軍として戦った身であるからと固辞したという。 
-明治6年(1873年)、48歳で病没した。屋敷跡に墓地がある。 
■ [[観音寺久左衛門(八代目)]]

■ [[観音寺久左衛門(九代目)]]

■ [[観音寺久左衛門(十代目)]]

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