#author("2020-09-29T14:15:36+09:00;2020-09-28T18:51:52+09:00","","")
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* 波谷守之 [#wbe7f51e]
&size(16){''波谷守之''(はだに もりゆき、1929年11月28日 - 1994年11月2日)は、日本の博徒。[[波谷組]]組長。元・三代目[[山口組]][[菅谷組]]舎弟。最後の博徒、天一坊と呼ばれた。};
** 略歴 [#wdfd8a8b]
-広島県呉市阿賀町出身。
-恐らく日本の博徒で歴史上1、2を争う大博打の勝負師。
-日本の博徒界で歴史上1、2を争う理解し難い桁違いの尋常ではない超大博打の勝負師。
-1945年(昭和20年)3月、広島市の博徒・[[渡辺長次郎]]の子分(若中)となった。
-同年12月、米軍による原子爆弾攻撃により親分である[[渡辺長次郎]]が死亡し、[[土岡組]]の組長である[[土岡博]]の舎弟となり[[土岡組]]の若中になる。
-1946年(昭和21年)3月、土岡博の舎弟・[[大西政寛]](通称・悪魔のキューピー)が中国から復員し、[[土岡組]]に加入した。この頃の広島県呉市の[[山村辰雄]](後の初代共政会会長)が[[山村組]]の看板を掲げ、進駐軍の木材運搬を行い経済力をつけていった。
-1954年(昭和29年)10月、広島県に[[山村組]]組長と若頭である[[佐々木哲彦]]の主導権争いに巻き込まれ(仁義なき戦い)、山村派[[小原組]]組員・[[平尾一三]]は碁会所から出てきた[[波谷守之]]の実父、[[波谷吾一]]を射殺した。[[土岡組]]幹部・[[波谷守之]]は拘留中であった.
-1970年(昭和45年)11月、[[波谷守之]]は、三代目[[山口組]]若頭補佐[[菅谷政雄]]の舎弟となった。
-1977年(昭和52年)1月、[[菅谷政雄]]は、内密に三代目[[山口組]]直参昇格を勝手に進めていた[[菅谷組]]系[[川内組]]・[[川内弘]]組長を破門とした。これを切っ掛けとして、[[三国事件]]が勃発した。
-同年8月31日午後9時過ぎ、阿倍野署の刑事2人は、[[波谷守之]]を殺人・銃砲刀剣類所持等取締法違反・火薬取締法違反容疑で逮捕した。冤罪の始まりである。(三国事件)
-1981年(昭和56年)11月25日、兄貴分である元三代目[[山口組]]若頭補佐・[[菅谷組]]組長の[[菅谷政雄]]が67歳にて死去した。その頃の波谷は冤罪により拘禁中であり、懲役20年を宣告され裁判で戦っていた。
-1984年(昭和59年)9月13日、長い年月を費やして無罪を勝ち取った[[波谷守之]]は、金沢刑務所を出た。
-1985年(昭和60年)波乱万丈の人生で、山下耕作監督「最後の博徒」のモデルになったのは[[波谷守之]]である。
-1987年(昭和62年)11月24日、[[菅谷政雄]]の7回忌が行われた。[[波谷守之]]の交渉で、午前中には、[[一和会]]関係者が焼香し、午後には[[山口組]]関係者が焼香した。
-1994年(平成6年)11月2日、[[波谷守之]]は、大阪市阿倍野区の自宅で こめかみを拳銃で撃って自殺した。
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