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* 向後 平 [#p486fcc8]
''向後 平''(こうご たいら、1916年 - )はヤクザ、博徒。[[向後>向後睦会]]初代。
''向後 平''(こうご たいら、本名・向後嘉豊 1916年 - 1956年3月6日)は日本のヤクザ、博徒。[[住吉一家>住吉一家(住吉会)]]・[[向後>向後睦会]]初代。
** 人物 [#zf2e5046]
-二代目[[住吉一家]]客分の[[高木康太]]([[関根組]]組長・[[関根 賢>関根賢]]と五分兄弟分)の芝浦[[高木組]]代貸である[[阿部重作]]一門の筆頭級若者。
-沖仲仕東京芝浦[[荒井組]]出身。三代目[[住吉一家]]大幹部。
-[[大日本興行]]初代[[高橋輝男]]の兄貴分である[[浦上信之]](銀座警察署長)とは同年代で、後に[[住吉会]]総裁になる[[西口茂男]]の親分でもあり、[[住吉会]]最高顧問・[[浜本政吉]](赤坂の天皇)の兄貴分でもある。
-二代目[[住吉一家>住吉一家(住吉会)]]客分の[[高木康太]]([[関根組]]組長・[[関根 賢>関根賢]]と五分兄弟分)の芝浦[[高木組]]代貸である[[阿部重作]]一門の筆頭若者。
-沖仲仕東京芝浦[[荒井組]]出身。三代目[[住吉一家>住吉一家(住吉会)]]大幹部。
-[[大日本興行]]初代[[高橋輝男]]の兄貴分である[[浦上信之]](銀座警察署長)とは同年代で、[[住吉会]]最高顧問・[[浜本政吉]](赤坂の天皇)の兄貴分、後に[[住吉会]]総裁になる[[西口茂男]]の親分である。
** 略歴 [#z9cbf25b]
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-1916年(大正5年)、愛知県名古屋で生まれた。
-1932年(昭和7年)、地元の学校を卒業し東京芝にある沖仲仕[[荒井組]]に入る。ここでの修行で後の[[住吉会]]最高顧問[[浜本政吉]]と出会い舎弟にした。
-1939年(昭和14年)、ヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発し、日本では太平洋戦争(大東亜戦争)開戦前に[[阿部重作]]から盃を受けた。
-1949年(昭和24年)、[[向後>向後睦会]]は[[阿部重作]]の芝浦事務所の責任者から高円寺へ住まいを移し、向後組(初期の向後睦会)を結成。その後は山手線~中央線沿線の新宿、八王子、埼玉の大宮まで手を伸ばし勢力拡大していった。「もっともヤクザらしいヤクザ」と言われ、昔ながらの力でのし上がるヤクザであった。[[阿部重作]]の本流に位置し、阿部の跡目を担う最有力な立場でもあった。
-1956年(昭和31年)3月6日午後14時ごろ、三代目[[住吉一家]][[大日本興行]][[高橋輝男]](34歳)らが台東区北清島町72の妙清寺で、[[大日本興行]]幹部の[[箭内武治]]の葬儀を執行中、同じく[[住吉一家]]の[[向後平]](40歳)が子分数名とともに自動車で乗りつけ焼香台に上がった。そしていきなり正面に座っていた高橋とその子分の同社専務[[桑原優]](29歳)ら参列者側に向け拳銃を乱射した。このため高橋側も拳銃を持ち出して応戦、その距離たった七尺(約2メートル)の至近距離で全弾発射する壮絶な撃ち合いとなった。高橋は心臓部に1発、桑原は下腹部などに5発、[[向後]]は下腹に数発の銃弾を受け.高橋、桑原は文京区駒込千駄木町の日本医大付属病院に、[[向後]]は台東区浅草雷門鈴木外科に収容されたが3人とも収容先の病院で死亡が確認された。
この間、葬儀に参列していた芝浦[[高木組]]・泉海陸作業会社社長でもあり三代目[[住吉一家]]総長[[阿部重作]](60歳)は、乱闘を止めようとして右中指を撃たれ指を切断、全治1ヶ月の負傷をした。
[[住吉一家]]内である[[大日本興行]]の告別式の席上において、同一家の幹部同士が二派に分かれて激しい銃撃戦を演じた。しかも相果てた[[向後平]]と[[高橋輝男]]は、ともに同一家の大幹部で、制止しようとして傷を負った[[阿部重作]]は、言うまでもなく[[住吉一家]]の三代目総長である。
当時を知るある親分によれば、告別式が終わり、後片付けをしていた時に突然起こった事で、何がなんだか分からないうちパーンと銃撃戦が始まったという。わずか数分間ほどの出来事で、阿部総長の他にやはり止めに入った某親分も頭を銃把で殴られ軽いケガをした。
-逸話として、当時の不良グループや愚連隊は[[向後 平>向後平]]に狙われたら腹をガス抜きで一文字に裂かれ、簀巻きにされ芝浦の海深くに沈められる、と伝えられていた。覚悟を決めての決戦か、降参するかのどちらかを選ばねばならなかったようである。
-1932年(昭和7年)、地元の学校を卒業し東京芝にある沖仲仕[[荒井組]]に入る。ここで後の[[住吉会]]最高顧問・[[浜本政吉]]と出会い舎弟にした。
-1939年(昭和14年)、[[阿部重作]]から盃を受ける。
-1949年(昭和24年)、[[向後>向後睦会]]は[[阿部重作]]の芝浦事務所の責任者から高円寺へ住まいを移し、向後組を結成。その後は山手線~中央線沿線の新宿、八王子、埼玉の大宮まで手を伸ばし勢力を拡大していった。「もっともヤクザらしいヤクザ」と言われ、昔ながらの力でのし上がるヤクザであった。阿部重作の跡目を担う立場でもあった。
*** 浅草妙清寺事件
-1956年(昭和31年)3月6日午後14時ごろ、三代目[[住吉一家>住吉一家(住吉会)]]・[[大日本興行]]・[[高橋輝男]]らが台東区北清島町72の妙清寺で、[[大日本興行]]幹部・箭内武治の葬儀を執行中、同じく[[住吉一家>住吉一家(住吉会)]]の向後平が子分数名と車で乗りつけ焼香台に上がり、いきなり正面に座っていた[[高橋輝男]]とその子分の同社専務・桑原優ら参列者側に向け拳銃を乱射した。
[[高橋輝男]]らは拳銃を持ち出して応戦し、その距離2メートルの至近距離で全弾発射する壮絶な撃ち合いとなった。
[[高橋輝男]]は心臓に1発、桑原優は下腹部などに5発、向後平は下腹部に数発の銃弾を受け、[[高橋輝男]]、桑原は文京区駒込千駄木町の日本医大付属病院に、向後平は台東区浅草雷門鈴木外科に収容されたが3人とも収容先の病院で死亡が確認された。
この間、葬儀に参列していた芝浦[[高木組]]・泉海陸作業会社社長でもあり三代目[[住吉一家>住吉一家(住吉会)]]総長・[[阿部重作]]は、乱闘を止めようとして右中指を撃たれ指を切断、全治1ヶ月の重傷を負った。
[[住吉一家>住吉一家(住吉会)]]内である[[大日本興行]]の告別式の席上において、同一家の幹部同士が二派に分かれて激しい銃撃戦を演じた。しかも相果てた向後平と[[高橋輝男]]はともに同一家の大幹部で、制止しようとして傷を負った[[阿部重作]]は、言うまでもなく[[住吉一家>住吉一家(住吉会)]]の三代目総長である。
当時を知る親分によれば、告別式が終わり、後片付けをしていた時に突然起こった事で、何がなんだか分からないうちパーンと銃撃戦が始まったという。わずか数分間ほどの出来事で、[[阿部重作]]の他、止めに入った某親分も頭を銃把で殴られ軽傷を負った。

*** 逸話
-当時の不良グループや愚連隊は向後平に狙われたら腹をガス抜きで一文字に裂かれ、簀巻きにされ芝浦の海深くに沈められる、と伝えられていた。
覚悟を決めての決戦か、降参するかのどちらかを選ばねばならなかったようである。
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