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* 北熊実左衛門 [#b74cd182]
&size(16){''北熊実左衛門''(きたくまの じつざえもん、本名:近藤実左衛門、近藤實左衞門)は幕末から明治の侠客、博徒。[[水野村吉五郎]]の子分、跡目。[[北熊一家]]初代。};
''北熊実左衛門''(きたくまの じつざえもん、本名・近藤実左衛門)は幕末の侠客、博徒。[[水野吉五郎]]の子分、跡目。[[北熊一家]]初代。
** 略歴 [#q1838b13]
-尾張国愛知郡北熊村(現在の長久手市北熊)の人。
-[[水野村吉五郎]]の子分で勇猛にして横暴。
-明治初年頃、吉五郎の跡目を継ぐ。 先代の名を用いず一家を[[北熊一家]]とした。
同じく吉五郎一家であった[[瀬戸愛吉]]の[[瀬戸一家]]と大いに勢力を争った。
-文政8年(1825年)8月1日生まれ。
-[[水野吉五郎]]の子分で勇猛にして横暴。
-尾張藩剣術指南役柿沼平内から念流を学び目録を受けたほどの剣術の使い手であった。後に尾張藩校明倫堂の剣術世話役となった。
-明治初年頃(嘉永5年とも)、[[水野吉五郎]]の跡目を継ぐ。先代の名を用いず一家を[[北熊一家]]とした。
-明治維新の際、尾張侯の越後隊へ加わり会津戦争へ行ったため、費場所を同じ[[水野吉五郎]]子分[[今村伊三]]へ預けた。同じく[[水野吉五郎]]子分の[[瀬戸愛吉]]は自分より格下の[[今村伊三]]へ費場所を預けられたことに不満を持っていた。
-戦争より帰ると親分の吉五郎一家を名乗らず自身の住居である愛知郡北熊村(現在の長久手市北熊)をとり[[北熊一家]]を名乗った。
-これに対し[[瀬戸愛吉]]は北熊実左衛門と絶縁し、自身の住居である東春日井郡瀬戸村(現在の瀬戸市の一部)より[[瀬戸一家]]を名乗った。[[北熊一家]]と[[瀬戸一家]]は大いに勢力を争った。
-[[信濃屋一家]]・[[信濃屋喜兵衛]]と兄弟分。
-[[五明常八]]、[[信濃屋一家]]・[[吉田久三郎>信濃屋久三郎]]と兄弟分とも。
-[[信濃屋喜兵衛]]墓に発起人近藤實左衛門とある。
-明治36年旧5月10日または6月5日没。行年79歳。墓所は長久手村北熊の共同墓地。
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