#author("2022-06-12T19:55:48+09:00","","")
* 保下田久六 [#mf3446fb]
&size(16){''保下田久六''(ほげたの きゅうろく、保下多久六、穂北久六、別名:八尾ヶ嶽宗七)は幕末のヤクザ、侠客、博徒、力士。[[清水次郎長]]の弟分、[[江戸屋虎五郎]]の弟分、[[常滑兵太郎]]の弟分([[常滑兵太郎]]が弟分とも)。};
**略歴 [#x3af5961]
-相撲取りで四股名を八尾ヶ嶽宗七といった。
-弘化3年(1846年)頃、まだ力士だったころ、尾張大野(常滑市大野町)の賭場で廻しを質草に取られて困っているところを、たまたま居合せた[[清水次郎長]]に救って貰ったのが縁で弟分となる。
-嘉永3年(1850年)、[[一宮久左衛門]]と喧嘩となり久左衛門を殺し、力士仲間の[[八万騎力蔵]]、[[畝比山清蔵]]、[[柏木石松]]、[[富士颪熊五郎]]、[[三国岩仲蔵]]、[[一ノ浜浜五郎]]、[[男山牛之助]]、黒岩某、木曽川某らを引き連れ[[清水次郎長]]のところへ逃避行する。
八尾ヶ嶽らを手厚く持成した治郎長は、上州館林の[[江戸屋虎五郎]]へ添状を書いて紹介した。そこで八尾ヶ嶽は[[江戸屋虎五郎]]の弟分となって、名を久六と改める。
-数年後、名古屋に戻る。安政5年暮、[[巾下長兵衛]]宅にて[[清水次郎長]]の妻お蝶病死。[[巾下長兵衛]]は兇状持ち隠匿の罪で捕われ牢死した。同じ名古屋にいた久六は[[清水次郎長]]の弟分でありながら、素知らぬ振りをしていたのみならず、二足の草鞋をはいていた久六は、官憲の手先となり、[[巾下長兵衛]]逮捕に一役買ったといわれ、それを知った[[清水次郎長]]が激怒し、安政6年(1859年)6月、知多半島の乙川にて久六は惨殺される。
-また、足利市野田町の寿徳寺にある[[江戸屋虎五郎]]関係者の碑には安政2年6月1日、尾州葛郷大川村戦死久六とある。
-兄貴分に[[大場久八]]、[[江戸屋虎五郎]]、[[清水次郎長]]。兄弟分には、[[常滑兵太郎]]、大阪[[水浅黄忠吉]]、伊豆[[赤鬼金平]]、焼津[[甲州屋長吉]]、[[相撲常]]([[五明常八]])などがいた。
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