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* 保下田久六 [#mf3446fb]
''保下田久六''(ほげたの きゅうろく、別名・八尾ヶ嶽宗七、-安政2年6月1日)は幕末の侠客、博徒、目明し、元力士。
''保下田久六''(ほげたの きゅうろく、穂北久六、別名・八尾ヶ嶽宗七、-安政2年6月1日)は幕末の侠客、博徒、目明し、元力士。
**略歴 [#x3af5961]
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-知多半島の人。
-知多郡(知多半島)の人。
-保下田の由来は、当時知多半島亀崎あたりを穂北と呼びそれが訛ったという説と、相撲で鉄砲柱がほげるほど稽古せよと言われ、柱がほげたからという説がある。
-相撲取りで四股名を八尾ヶ嶽宗七といった。
-[[清水次郎長]]の元弟分、[[江戸屋虎五郎]]の弟分、[[大場久八]]の弟分。[[常滑兵太郎]]の弟分([[常滑兵太郎]]が弟分とも)。
-弘化3年(1846年)頃、まだ力士だったころ、尾張大野(常滑市大野町)の[[常滑一家]]・[[大野佐源次]]の賭場で廻しを質草に取られて困っているところを、たまたま居合わせた[[清水次郎長]]に救って貰ったのが縁で次郎長の弟分となる。
-その後、力士を辞め博徒となる。
-その後、力士を辞め博徒となり保下田久六を名乗る。
-駆け出しの頃から再三、正式な兄弟分でもない次郎長に喧嘩の加勢を頼んだり、金を貰ったり、数々の世話になっていた。
-嘉永3年(1850年)、[[一宮久左衛門]]と喧嘩となり久左衛門を殺し、力士仲間の[[八万騎力蔵]]、[[畝比山清蔵]]、[[柏木石松]]、[[富士颪熊五郎]]、[[三国岩仲蔵]]、[[一ノ浜浜五郎]]、[[男山牛之助]]、黒岩某、木曽川某らを引き連れ[[清水次郎長]]のところへ逃避行する。
八尾ヶ嶽らを手厚く持成した次郎長は、上州館林の[[江戸屋虎五郎]]へ添状を書いて紹介した。そこで八尾ヶ嶽は[[江戸屋虎五郎]]の弟分となって、名を久六と改める。
-数年後、名古屋に戻る。
-伊豆の大親分・[[大場久八]]を後ろ盾に、[[赤鬼金平]]、常滑の[[中野兵太郎>常滑兵太郎]]、大阪・[[水浅黄忠吉]]、焼津・[[甲州屋長吉]]、[[相撲常]]([[五明常八]])らと兄弟分となる。
-安政5年暮、[[巾下長兵衛]]宅にて[[清水次郎長]]の妻お蝶が病死する。[[巾下長兵衛]]は兇状持ち隠匿の罪で捕われ牢死した。同じ名古屋にいた久六は[[清水次郎長]]の弟分でありながら、素知らぬ振りをしていたのみならず、二足の草鞋を履いていたため、官憲の手先となり、[[巾下長兵衛]]逮捕に一役買ったといわれ、それを知った[[清水次郎長]]が激怒し、安政6年(1859年)6月、知多半島の乙川にて久六は惨殺される。
-また、足利市野田町の寿徳寺にある[[江戸屋虎五郎]]関係者の碑には安政2年6月1日、尾州葛郷大川村戦死久六とある。
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** 検索用 [#ec3c2583]
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保下田久六、保下多久六、穂北久六、穗北久六、保下田ノ久六、保下多ノ久六、穂北ノ久六、穗北ノ久六、八尾ヶ嶽宗七、八尾ヶ嶽惣七、八尾ヶ岳宗七、八尾ヶ岳惣七、八尾ケ嶽宗七、八尾ケ嶽惣七、八尾ケ岳宗七、八尾ケ岳惣七
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