荊原和太郎
荊原和太郎(ばらはらの わたろう、本名・谷部和太郎、別名・谷部太右衛門)は幕末から明治の侠客、博徒。寺谷一家四代目。
略歴
- 武蔵国足立郡荊原の人。
- 天保5年(1834年)5月1日または天保8年(1837年)8月、久下長八こと谷部太右衛門の長男に生まれる。
- 親子二代続で大親分で荊原一家として鳴らした。
- 寺谷善太夫の子分となる。
- 前砂勇吉跡目。
- 明治20年頃、池上の親分で鉄の棒と異名を取った新井某は、荊原一家と仲悪く久しくもめていた。
ある夜鉄の棒は熊谷からの帰途池上にさしかかると、小さな橋下に荊原一家の者が忍び居り鉄の棒を殺害した。
この事件の犯人は一切不明に終わったことから、荊原一家?が目明しとして警察に強力していたことが伺える。
- 寺谷一家供養碑に施主谷部和太郎事改名谷部太右衛門建立、小山市間之川一家・佐山森之助墓に世話人武州下久下・谷部太右衛門、前砂勇吉墓に荊原・和太郎とある。
- 静岡安東一家・小野田与市の香典帳に金弐拾円武州寺谷一家和太郎若者中とある。
- 明治30年11月17日または明治31年閏11月17日病没。行年63歳または60歳。墓所は埼玉県北足立郡吹上町荊原の谷部家墓地。
- 谷部和太郎墓が寺谷一家前三代親分の墓と並んで建てられる。墓前面に谷部和太郎之墓とあり、裏側に谷部和太郎翁通称太右衛門。天保八年八月を以て生まれる。荊原の家なり。明治三十一年閏十一月十七日病を以て歿す。年齢六十才。とある。
- 跡目は小敷田久五郎が継ぐ。
- 平成3年18月、寺谷一家十一代目総長・佐藤正剛が、寺谷一家三侠碑と和太郎墓を川里村屈巣の円通寺に移し新たに「任侠之碑」を建之して供養した。
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