下植木浅次郎
下植木浅次郎(しもうえきの あさじろう、別名・板割浅太郎、本名・大谷浅太郎)は幕末の侠客、博徒。国定忠治の子分(養子とも)。
略歴
- 下植木村は上野国佐波郡下植木村より。
- 長槍を巧みに使い、また日に40里(約157km)を走るほど健脚であったという。
- 1842年、国定忠治が賭場の最中に関東取締出役の急襲を受け、かろうじて脱出したが、浅次郎が密告したのではないかと疑われたため(国定忠治は浅次郎のためを思い堅気に戻そうとしたとも)、疑いを晴らすために自身の叔父である三室勘助とその子太郎吉(勘太郎)を殺害する。
- 天保13年(1842年)、赤城山で国定忠治と別れた跡は仏門に入り長野県佐久の時宗金台寺の列外和尚の弟子となり列成と名を改める。後に遊行寺の堂守となり、鐘つき、参詣者の接待、清掃をしながら念仏三昧、三室勘助親子の菩提を弔った。その精進、改心が認められ、当時遊行寺にあった貞松院の住職となった。
- 1880年、遊行寺が火災に遭った際、勧進僧となり各地をめぐり本山の復興に尽くした。
- 明治26年(1893年)12月30日、74才で死去。
- 墓所は神奈川県藤沢市の遊行寺。
- 天保13年(1842年)、捕らえられ処刑された(晒し首)という説あり。
検索
下植木浅次郎、下植木淺次郎、下植木村浅次郎、下植木村淺次郎、下植木ノ浅次郎、下植木ノ淺次郎、下植木村ノ浅次郎、下植木村ノ淺次郎、板割浅太郎、板割浅次郎、板割浅次、板割浅治、武井浅二
▴ 詳細を表示
- この項目は書きかけ項目です。
- 役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
※誹謗中傷や悪戯、あらし行為、悪質な売名行為、他サイトの宣伝などは厳禁とします。
- 編集される際は「テキスト整形のルール(詳細版)」をご覧下さい。
- 編集を依頼される場合、他のユーザーに編集協力を依頼する時は下記の【このページの編集依頼】または【加筆・編集依頼】から編集対象のページタイトル・編集内容をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。
運営宛に編集依頼する時は【メールで編集依頼】から依頼して下さい。
【このページの編集依頼】