百々紋次
百々紋次(どうどうの もんじ、百々村紋次、本名・羽鳥弥久)は幕末の侠客、博徒。
略歴
- 上野国新田郡百々村の人。
- 国定忠治の親分であったとされる。
- 1793年、羽鳥門庫の次男に生まれる。
- 1805年、茂呂村の五十嵐金弥の道場に通い気楽流剣術を学ぶ。
- 1809年、家を飛び出す。
- 1810年、大前田栄五郎、月田栄次郎?と兄弟分になる。
- 1812年、出雲崎の観音寺久左衛門、新潟の池上徳右衛門の世話になる。
- 1813年、美濃の合渡政五郎の世話になる。
- 1815年、銚子五郎蔵の子分、飯岡助五郎と兄弟分になる。
- 1818年、越後長岡で合の川政五郎の弟分になる。
- 1820年、合渡政五郎の喧嘩の助っ人のため、美濃に行く。美濃で栄五郎と再会する。
美濃から帰って来て、紋次を名乗り、百々一家を張る。縄張りは境宿、武士村の渡し。
木島村助次郎?が紋次の子分となる。
境宿新五郎?が紋次の子分になる。
武士村惣次郎?が紋次の子分になる。
- 1821年、紋次無宿になる。
- 1822年、馬見塚村左太郎?が紋次の子分になる。
- 1823年、三室村勘助の兄貴分になる。
柴宿啓蔵?が紋次の子分になる。
- 1825年、三ツ木文蔵が紋次の子分となる。
- 1826年、保泉久五郎が紋次の子分となる。
- 1827年10月、国定村忠次郎(国定忠治)が紋次の子分になる。
山王道民五郎が紋次の子分になる。
- 1830年9月、病に倒れ、忠次郎に跡目を譲り隠居する。
- 1833年5月、忠次郎が島村伊三郎の賭場を荒らし、簀巻きにされるが、福田屋栄次郎に助けられる。栄次郎、紋次の見舞いに来る。
- 1842年3月11日、死去。
検索:百々村紋次、百々村ノ紋次、百々ノ紋次、百々紋二、百々ノ紋二
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