大塚勘五郎
大塚勘五郎(おおつかの かんごろう、本名・井上勘五郎、通称「大塚のおかん」)は幕末の侠客、博徒。一ノ宮一家二代目。
略歴
- 八王子在柚木領大塚村の出自。
- 一ノ宮万平の子分であり、同じ子分の東中野小才次とは兄弟分と考えられる。
- 嘉永4年(1851)初冬、八王子在子安村の山賭博で才次郎が捕縛され、収監中に病没すると、親分万平、小金井小次郎、角屋彦兵衛、百草元蔵?、子安清次郎?、才次郎跡目の兼次郎らが連盟で、東中野の善徳寺に墓碑を建てている。(台座に6名名前あり)
- 嘉永5年(1852)には、相次ぐ賭博取締に我慢がならず不満を表明し、別所村の名主の宅へ単身乗り込み、談判に及んでいる。周辺の名主連はこれを問題視したが当人の勢いに呑まれ、内済に及んだ。(『公私日記』)
- 同年11月17日、八王子の市切賭場へ顔を出したところを役人に踏み込まれるが、小金井小次郎と共に、その場を巧みに逃走した。
- 安政5年(1858)3月17日夜、八王子横山宿で、子分の寺沢村長八(かざ長)、兄弟分上州無宿喜代、三州無宿某、駿河無宿熊五郎、同人子分熊らと共に角屋彦兵衛の宅へ乗り込み、彦兵衛を殺害し逃走した。
- この際の手配書が関東各地に出されており、それによれば、勘五郎の風貌は「背丈は中より高く、太り気味、丸顔で赤黒い顔をしており、髪は薄く、眉毛も薄い」とのものであった。
- 同時に鉄鋼・脚絆の旅支度に羽織をかけ、二尺の長脇差を腰にぶち込み、菅笠をかぶって事に及び、そのまま行方をくらませた。
- その後各地を兇状旅し、旅の空の下死亡。没年没日は慶応2年(1866)8月27日。墓は大塚の最勝寺、子安の興林寺、多摩市の真明寺の三ヶ所にある。
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