保下田久六(ほげたの きゅうろく、別名:八尾ヶ嶽宗七)は幕末のヤクザ、侠客、博徒、力士。清水次郎長の弟分。
歿 年 安政六年六月
穂北ノ久六は、相撲取りで四股名を八尾ヶ嶽宗七といった。弘化三年(一八四六)頃、まだ力士だったころ、尾張大野(常滑市大野町)の賭場で「廻し」を質草に取られて困っている処を、たまたま居合せた清水ノ治郎長に救って貰ったのが縁で弟分となる。嘉永三年(一八五〇)、一の宮ノ久左衛門と喧嘩となり久左衛門を殺し、力士仲間の八万騎力蔵、畝比山清蔵、柏木石松、富士颪熊五郎、三国岩仲蔵、一ノ浜浜五郎、男山牛之助、黒岩某、木曽川某らを引き連れ清水ノ治郎長の処へ逃避行する。(この時のメンバー何人かが一緒に載っている相撲番付がある)。八尾ヶ嶽らを手厚く持成した治郎長は、上州館林の江戸屋虎五郎へ添状を書いて紹介した。そこで八尾ヶ嶽は虎五郎の弟分となって、名を久六と改める。足利市野田町の寿徳寺にある虎五郎関係者の碑には安政二年六月一日、尾州葛郷大川村戦死久六とある。数年後、名古屋に戻る。安政五年暮、巾下ノ長兵衛宅にて治郎長の妻おてふ病死(墓は名古屋平和公園にある)巾下ノ長兵衛は兇状持ち隠匿の罪で捕われ牢死した。同じ名古屋にいた久六は治郎長の弟分でありながら、素知らぬ振りをしていたのみならず、二足の草鞋をはいていた久六は、官憲の手先となり、長兵衛逮捕に一役買ったといわれ、それを知った治郎長が激怒し、安政六年(一八五九)六月、知多半島の乙川にて久六は惨殺される。兄貴分に大場ノ久八、江戸屋虎五郎、清水ノ治郎長。兄弟分には、常滑ノ兵太郎、大阪水浅黄ノ忠吉、伊豆赤鬼ノ金平、焼津甲州屋ノ長吉、相撲常(五明ノ常八)などがいた。
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