丸屋忠吉
丸屋忠吉(本名:鈴木忠吉)は幕末の侠客、博徒。
略歴
- 仙台の親分。
- 忠吉の性は鈴木、屋号を丸屋と称し、仙台藩六十二万石の十手捕縄を預かった奥州きっての大貸元として、その名は人物のりっぱさとともに關東から東海一円に知られた仁侠である。
- 先祖は志摩尾鷲の城主丹後守宗光で、十世の孫甚左衛門が寛永十二年に下って伊達家の御用染屋を勤めた。
- 寛永十三年経ヶ峯に貞山さんの瑞鳳殿霊屋を造営した時、今の霊屋下に置かれた御用染師たちは上染師町と南染師町に替地を与えられて移ったが、甚左衛門は南染師町に店を構え、代々甚吉を襲名した。その六代目が忠吉である。大町に移ったのは先代甚吉の時であろう。忠吉はホロ忠、馬鹿忠といわれ少年時代はぼんやりした子供だったが、二十の時に、塩釜で羽振りをきかした評判のよくない丹治という親分が忠吉を散々に倒したので、単身塩釜へなぐり込んで丹治を斬り、世間を驚かしたが、七十年の生涯に喧嘩出入りは、これがただ一回で、貫禄と仁徳で相手を悦服させ一生を貫いた。当時仙台の町奉行所は東二番丁、宮城学院の所にあったが、忠吉は町奉行の信任をうけて苗字帯刀を許され十手捕縄を預けられた。仙台城下の相撲、芝居から見世物に至るまで一切の興業は忠吉に渡りをつけなければ出来なかった。旅芸人の果てまで丸屋へ挨拶する慣例で、忠吉はそれらの者をよく面倒を見た。
忠吉が藩から正式に町奉行支配目明しに任じられたのは弘化三年三月で六十二歳の時であった。江戸幕府の制度に目明しはなく仙台藩としては慎重に忠吉の人物を認めた上の登用であろう。同時に刻煙草と紙の専売権も与えられた。
- 嘉永七年五月一日七十歳で卒した。墓は成田町冷源寺にある。
その屋敷跡は明治になってから仙台最初の代言人(弁護士)佐藤運宜邸となりさらに三原時計店と替わったが、戦災までは国定忠治、笹川繁蔵、高野長英がかくまわれた土蔵も座敷も庭もそっくり残っていた。
- 嘉永七年五月一日歿。行年七十歳。墓所は仙台市若林区成田町の冷源寺。
検索:丸屋ノ忠吉、鈴木忠吉
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