矢ツ車留吉
矢ツ車留吉(本名・大西留吉)は幕末から明治の侠客、博徒。会津小鉄一家。
略歴
- 京都の人。
- 明治21年、勧進元いろは幸太郎、差添人矢ッ車留吉で興行したのをきっかけに、いろは共々京都相撲に入り頭取となり。
- 明治23年11月には勧進元を務め、明治25年5月には副頭取となる。
- 会津小鉄墓に矢ッ車留吉、高野山にある小林佐兵衛記念碑に矢ッ車事大西留吉と刻銘あり。
- 明治28年6月20日、当時流行のコレラに罹り急死。行年44歳。
6月27日本妙寺で葬儀が行なわれた。墓所は京都府京都市左京区仁王門東大路東の本妙寺。明治38年11月大西松之助建之。
- 本妙寺に矢ッ車留吉碑があり、裏面に発起人矢ッ車若中、明治二十九年三月三日、川上音二郎建之とある。
- この項目は書きかけ項目です。
- 役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
※誹謗中傷や悪戯、あらし行為、悪質な売名行為、他サイトの宣伝などは厳禁とします。
- 編集される際は「テキスト整形のルール(詳細版)」をご覧下さい。
- 編集を依頼される場合、他のユーザーに編集協力を依頼する時は下記の【このページの編集依頼】または【加筆・編集依頼】から編集対象のページタイトル・編集内容をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。
運営宛に編集依頼する時は【メールで編集依頼】から依頼して下さい。
【このページの編集依頼】