大和屋富之助
大和屋富之助(やまとや とみのすけ)は幕末の侠客。(1806ー1885)、信州の侠客、興行師、目明し
略歴
- 姓高山。佐右衛門の子として、塩尻宿の大和屋に文化3年に生まれた。
本名富三郎。
富之助は、当時信州の代表的な侠客の一人として名を売り、生家大和屋の主人を務めた。同じ信州の侠客・岡田瀧蔵とは兄弟分の間柄となる。
富之助の侠客としての事跡は『二足わらじ間の川又五郎』に詳しく、この中では信州・上州間の博徒の抗争の仲介に尽力し、凶状旅の旅人の止宿を引き受けている。
一方で甥の政之助が相の川の子分に殺害されると、兄弟分の岡田瀧蔵に子分を率いさせ、その敵を討つべく追跡させるという武闘派の一面も持っていた。
大和屋は、人通りの多い中山道塩尻宿の中でも代表的な妓楼の一つであり、実際に富之助が遊女屋主人として、遠方の遊郭から奉公人の「住替(移籍)」をおこなっていたことを『つちや武助日記』に見ることができる。彼は自身奉公人を連れて軽井沢宿までの旅を何度も敢行している。
目明しとしての事跡は『権堂町誌』に拠る。弘化元年高野長英が逃亡した際に、その行方を追跡する「目明し」の一人として「塩尻宿、大和屋富之助」の名が挙がっている。
また中村仲三の『手前味噌』では、旅役者の投宿の場として大和屋富之助親分宅が挙がっているので、彼が芝居の興行主として活動していたことも明らかである。
顔役として塩尻宿の村政にも少なからずかかわりを持っていたことは、慶応2年の木曽騒動の際、馬の宰領として一揆勢の元へ送られる物資の輸送頭を務めたことからもうかがえる。
明治に入ると、兄佐右衛門の子を養子としてもらい受け、これに大和屋を継がせた。
明治15年5月8日没、任侠家業は自分一代までとしたか、自身に関わる書類などは一切残さなかった。しかし道中富之助の用いた脇差のみは今も高山家に残っており、脇差に付属した「割笄」を旅中に箸として用いたとの伝承が残っている。
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