後藤栄治
後藤栄治(ごとう えいじ 宮本榮治)は日本のヤクザ。一和会・二代目山広組若頭、後藤組組長。
略歴
- 山広組組長・山本広が、山口組を離脱して一和会を発足。
山口組と一和会の抗争(山一抗争)が起こると、後藤栄治は二代目山広組若頭として四代目山口組組長・竹中正久の暗殺に関わった。
- 1984年7月下旬、一和会・二代目山広組若頭・後藤栄治は、山広組舎弟・長野修一とともに山口組に対する行動隊を結成。
長野修一を行動隊長に据え、9月中旬には山広組から19人の組員を選抜し行動隊の結成式を行なった。
- 1985年1月12日、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」に竹中正久の愛人が住んでいるとの情報を受け、後藤栄治は長野修一を伊勢自動車道の津インターチェンジに呼び、共に吹田市の「GSハイム第二江坂」に向かった。
車中で後藤栄治は、25口径ベレッタと25口径タイタン、32口径チーフスペシャルを長野修一に渡した。
- 1985年1月26日21時15分過ぎ、一和会常任理事・悟道連合会会長・石川裕雄が指揮し、後藤栄治、同組行動隊長・長野修一、実行犯の同組員・長尾直美?、田辺豊記?、立花和夫?により、竹中正久が中山勝正と山口組・南組組長・南力とともに「GSハイム第二江坂」に着いたところを、1階エレベーター前で実行犯3人が銃撃。
中山勝正は4時間後に死亡、南力は即死、竹中正久は大阪警察病院で翌27日に死亡した。
- 同年、四代目山口組・弘田組系菱心会・竹内照明(当時25歳)が、組員数人で共謀し、後藤組の若頭・吉田清澄を拉致した。後藤の居場所を吐かせようと重傷を加えたがそれでも居場所を言わず、次の矛先を変更し、吉田の命を保証する代わりに後藤組の解散を迫られると、これに応じて解散届を三重県警津警察署に届け、山口組本部にも「詫び状」を送付した。
- 2024年9月2日、同年2月に長崎県松浦市内の飲食店2店舗を介して、松浦市議会議員だった男性が「正月明けから連日連夜はしゃいでいる」「わいせつ罪を犯している」などの虚偽内容が書かれた複数の文書を客らに配り、男性の名誉を傷つけたとして、名誉毀損の疑いで逮捕された。男性は事件後に自死した。逮捕時には竹中正久組長ら3人の射殺事件ではすでに時効が成立していた(※)。
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