間ノ川政五郎
間ノ川政五郎(あいのかわの まさごろう、別名・越後政五郎、上総屋源七、大久保政五郎、高瀬仙右衛門、本名・高瀬茂高、高瀬仙右衛門茂高、1788年-1860年または1861年)は幕末の侠客、博徒、目明し。間ノ川一家初代。
略歴
- 天明8年、上野国邑楽郡大久保または大高島村の富豪(船問屋)高瀬家の次男に生まれた(後に九代目)。
- 家は代々上野国邑楽郡大久保村(群馬県板倉町)の廻船問屋。
- 幼い時家が没落し、合ノ川村の博徒・間之川新八に預けられ博徒となった。
- 博徒修業のため東海道一帯を旅し名を売った。
- 越後国長岡に移った。この頃越後政五郎と呼ばれた。子分2000人余に及ぶ親分として知られた。
- 信濃国善光寺門前町(権堂村)に移り、遊女屋の主人となった。この頃上総屋源七と呼ばれた。
- 弟分の島田屋伊伝次に縄張りを譲り、実家の再興を図った。
- 文政11年、関東信越地方の逃走悪漢凶徒の捕役となり、また川俣組合40ヵ村の大総代をつとめた。
- 銚子勝五郎、江古田幸平と並んで関東の三旦那と言われた。
- 万延元年12月25日、死去。享年73歳。墓所は群馬県邑楽郡板倉町大高島大久保の清浄院。
検索用
間ノ川政五郎、間之川政五郎、合ノ川政五郎、合之川政五郎、相ノ川政五郎、相之川政五郎、越後政五郎、上総屋源七、大久保政五郎、間ノ川ノ政五郎、間之川ノ政五郎、合ノ川ノ政五郎、合之川ノ政五郎、相ノ川ノ政五郎、相之川ノ政五郎、越後ノ政五郎、上総屋ノ源七、大久保ノ政五郎、高瀬仙右衛門、高瀬茂高、高瀬仙右衛門茂高
▴ 詳細を表示
- この項目は書きかけ項目です。
- 役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
※誹謗中傷や悪戯、あらし行為、悪質な売名行為、他サイトの宣伝などは厳禁とします。
- 編集される際は「テキスト整形のルール(詳細版)」をご覧下さい。
- 編集を依頼される場合、他のユーザーに編集協力を依頼する時は下記の【このページの編集依頼】または【加筆・編集依頼】から編集対象のページタイトル・編集内容をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。
運営宛に編集依頼する時は【メールで編集依頼】から依頼して下さい。
【このページの編集依頼】