北熊実左衛門
北熊実左衛門(きたくまの じつざえもん、本名・近藤実左衛門)は幕末の侠客、博徒。水野吉五郎の子分、跡目。北熊一家初代。
略歴
- 尾張国愛知郡北熊村(現在の長久手市北熊)の人。
- 文政8年(1825年)8月1日生まれ。文政6年、生まれとも。父は村一番の資産家である実右衛門で、姉が9人おり10子として生まれる。9人の姉の嫁入り支度の支出と、父が尾張米を三河に売るという当時の国禁を犯したため家は傾いた。
- 力士都島勝五郎に弟子入りする。その後創客柿内兵内の門に入り剣を磨く。
- 尾張藩剣術指南役柿沼平内から念流を学び目録を受けたほどの剣術の使い手であった。後に尾張藩校明倫堂の剣術世話役となった。
- 25歳の頃、岩作の親分直蔵の娘を女房にする。
- ある時舅直蔵が付近の親分太郎七とその子嘉十に殴られ、その仇を討たんと殴りこむが返り討ちにあって重症を負う。しかし翌日平然と農作業に従事していた。
- この話を聞いた水野吉五郎はその腕力と豪胆さに惚れ込み子分になるよう請う。27歳の時子分となる。
- 博徒調査資料には水野吉五郎の子分で勇猛にして横暴とある。
- 明治初年頃(嘉永5年とも)、水野吉五郎の跡目を継ぐ。
別説では安政4年、30歳にして他の古参子分を差し置き吉五郎から跡目を譲られた。
- 元治元年、水野陣屋からの特命で水戸脱藩武田薫の斥候を命ぜられ、実左衛門他子分十余人は軍夫または雇人に化け詳細を探って報告した。
その功により苗字帯刀を許され近藤実左衛門と称す。
- 明治維新の際、大目付渡辺鉞次郎に召し出され命を受け尾張侯の越後隊へ加わり、また自身の隊を集義隊とし会津戦争へ行った。その際費場所を同じ水野吉五郎子分今村伊三へ預けた。同じく水野吉五郎子分の瀬戸愛吉は自分より格下の今村伊三へ費場所を預けられたことに不満を持っていた。
- 戦争より帰ると親分の吉五郎一家を名乗らず自身の住居である愛知郡北熊村(現在の長久手市北熊)をとり北熊一家を名乗った。
- これに対し瀬戸愛吉は北熊実左衛門と絶縁し、自身の住居である東春日井郡瀬戸村(現在の瀬戸市の一部)より瀬戸一家を名乗った。北熊一家と瀬戸一家は大いに勢力を争った。
- 信濃屋一家・信濃屋喜兵衛と兄弟分。
- 五明一家・五明常八、信濃屋一家・吉田久三郎と兄弟分とも。
- 岡島一家・岡島次郎吉は舎弟。
- 信濃屋喜兵衛墓に発起人近藤實左衛門とある。
- 明治36年旧5月10日または6月5日没。行年79歳。墓所は長久手村北熊の共同墓地。
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