黒駒勝蔵
黒駒勝蔵(くろこまの かつぞう、本名・小池勝蔵、1832年-1871年11月26日)は幕末の侠客、博徒、尊王攘夷派の志士。
略歴
- 甲斐国八代郡上黒駒村(現在の山梨県笛吹市御坂町上黒駒)の人。
- 天保元年(1830年)または1832年、黒駒村若宮の名主吉右衛門の次男に生まれる。
- 1856年7月、生家を出奔し、竹居村の竹居安五郎の兄・中村甚兵衛の子分となる。 -駿河・宮島年蔵、伊豆・赤鬼金平、伊豆・大場久八、伊勢・丹波屋伝兵衛と同盟を結び、清水次郎長と敵対した。
- 1862年、竹居安五郎が関東取締出役道案内の国分三蔵により捕縛され獄死する。勝蔵は竹居安五郎の手下を黒駒一家としてまとめ、上黒駒村戸倉を拠点に甲州博徒の大親分として勇名を関八州に轟かせた。
- 弘化4年8月5日、甲州金川河原にて祐天仙之助と出入りとなり、黒駒方の瑠璃光院ノ鬼勝?と遠州堂山ノ竜五郎の子分だった三州ノ理吉、祐天方の小室井ノ藤三郎の子分堀ノ内ノ嘉吉?、佐渡の金堀人足の銀次、作蔵、三代太の六人が討死した。
- この喧嘩が終わると、勝蔵は国を売ることとなり、安東文吉の弟分二軒茶屋庄五郎に頼み、文吉に紹介して貰った。
- 文吉は選別五十両に手紙をつけて勝蔵を濃州上有知小左衛門に紹介した。
- 小左衛門のところに寄食している時、袋井宿の部屋頭四角山周吉を斬って美濃に逃れて来た堀越藤左衛門と懇意なり藤左衛門を弟分にした。
- 兄弟分には玉屋佐十郎。
- 1864年3月15日、勝蔵は国分三蔵宅を襲撃するが、三蔵は逃亡する。同年6月に勝蔵は三河国の博徒・雲風亀吉のもとに潜伏していたが、次郎長による襲撃を受けている。同年10月17日には甲斐へ戻り、竹居安五郎の敵である犬上郡次郎を殺害する。郡次郎を殺害すると御坂山地に潜伏し、役人や敵対する博徒の追尾をかわす。
- 1865年7月、石和代官所が大規模な山狩りを行うと、甲斐国外へ逃れる。1866年4月6日、荒神山の喧嘩が発生する。
- 勝蔵は尊皇攘夷の影響を受けているとされ、上黒駒村の檜峰神社の神主である武藤家が尊皇攘夷思想の影響を受けた国学塾を開いており、勝蔵に影響を与えた可能性を指摘している。
勝蔵は甲斐を離れると、岐阜の水野弥太郎のもとに潜伏する。
- 1868年正月、黒駒一家を解散し、小宮山勝蔵の変名を用いて、弥太郎の子分も入隊していた草莽隊の赤報隊に入隊する。
- 勝蔵は官軍側について戊辰戦争に参加しているが、赤報隊は「偽官軍」として新政府軍に処罰され、隊長の相楽総三は処刑され、水野弥太郎も捕縛され獄死している。このため赤報隊は解散となり、勝蔵は京都で四条隆謌に随行する徴兵七番隊(のち第一遊撃隊)に入隊し、池田勝馬の変名を名乗る。
- 慶応4年5月には駿府、江戸を経て、仙台戦争に従軍する。
- 戊辰戦争の終結後、1870年の兵制改革で勝蔵の所属していた徴兵七番隊は解散される。
- 翌1871年2月2日、勝蔵は脱隊の嫌疑で捕縛され入牢し、同年10月14日に山梨県甲府市酒折近くの山崎処刑場で斬首された。勝蔵の処刑は秘密裏に執行されたと見られているが、処刑日に関して個人蔵の「黒駒勝蔵紙位碑」では勝蔵の命日を明治4年2月7日と異なる日付を記しており、勝蔵が入牢した段階で死亡したものと判断し位牌に記した可能性が考えられている。
- 明治4年10月14日、甲府の山崎の刑場で処刑される。行年42歳。墓所は山梨県東八代郡御坂町上黒駒の淨滝寺。
配下
塩田玉五郎
八代綱五郎
成田岩五郎(大岩)
中川岩吉(小岩)
八千蔵要次郎?
八千蔵多一郎?
北八代多五郎?
八幡北猪之助?
落合角太郎?
国分乙吉?
東花輪乙吉?
遠州掛川宿万平?
遠州森秀五郎?
信州喜十郎?
肥後次三郎?
狐新居兼吉?
郡内吉田房吉?
中川新左衛門?
成田文作?
駿州吉原宿勝太郎?
小笠原伊三郎?
上万力森太郎
上万力照太郎?(正徳寺太八の子分)
坊主鉄?
永井新助(上今井庄太郎?子分)
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