安東文吉
安東文吉(あんどうの ぶんきち、本名・西谷文吉、1808年 - 1871年5月26日)は幕末の侠客、博徒、目明し、元力士。安東一家初代。
略歴
- 静岡県静岡市安東の人。
- 文化5年(1808年)1月、安東村北安東の農業・西谷甲左衛門の伜に生まれる。
- 文政の終わりごろ弟の辰五郎と江戸相撲の清見潟部屋へ入門して相撲取りとなって四股名を文吉が芳ノ森文吉、辰五郎が芳ノ川辰五郎といったが、すぐ相撲を廃業して侠客となる。
- 天保5年(1834年)4月14日、安倍川の川越人足の親分河原町ノ炭彦?を人の為に斬り男をあげる。斬られた河原町ノ炭彦は、どこかへ逃げて行方不明となり、炭彦の子分達は文吉の子分となる。
- 兄弟分には伊勢の丹波屋伝兵衛。弟分には甲州の二軒茶屋庄五郎、駿河の岩淵源七、蒲原の平野屋三平、静岡の二丁町元五郎、焼津城之腰の甲州屋長吉、安西五丁目の安西吉五郎、静岡丸子菊石虎。
- 駿河国府中(現・静岡県静岡市駿河区)に一家を構えた二足草鞋の大親分。別名「暗闇の代官」、「日本一首継(にほんいち・くびつなぎ)親分。
- 駿河代官道案内の筆頭となり、凶悪犯でも当人の更生を考えて、そっと逃がしてやったので、首つなぎの親分と呼ばれた。
- その勢力は駿府を江尻紺久と二分したといわれ、清水次郎長も頭が上がらなかったといわれる。
- 安東文吉伝があり。
- 明治4年2月23日歿。行年64歳。墓所は静岡県静岡市池田の本覚寺。
墓の台石に子分達の名前が刻んである。
配下
安東文吉十哲
仏ノ勇蔵(長谷村ノ勇吉)
柳新田ノ政蔵
安西五丁目ノ吉五郎(悪吉)
瀬名ノ権次郎(瀬名村ノ権次郎)
沼上ノ石音
信州屋源次郎(長谷ノ源次?)
池谷ノ松?
長谷安五郎(長谷村安五郎?)
長谷徳次郎(長谷村徳次郎?)
足袋屋伊之助(片羽町ノ伊之助?)
七騎
鍋屋ノ宇吉(菖蒲谷)
安部ノ由
牛妻ノ茂助
水口の岩下初五郎
新田梅五郎(梅ヶ島)
足久保宗十
船沢武右衛門(足久保)
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