打越会
打越会(うちこしかい)は広島県に存在した暴力団で、三代目山口組の二次団体であった。
- 打越信夫は陸軍除隊後、日本機械化義勇団に入団。装甲車やトラックの運転を身に付ける。戦後広島へ戻るとトラック2台を振り出しに運送業を始め、闇物資運搬を主なシノギとした。ほどなく博徒で広島・岡組組長・岡敏夫の舎弟になる。
- 1954年、実兄のタクシー経営を継いで市中央部の紙屋町に進出する。当初は保有台数3台であったが、同業3社を次々に買収し、1959年頃には市内第3位・保有台数32台を誇る会社に成長した。この頃になると組員も八十名を数える規模となり、岡組舎弟の中では一頭地を抜く存在となり、資金面でも岡組を支えていた。
- 1960年頃から岡敏夫の健康問題から跡目問題が噂される。最有力候補は打越信夫だが、三羽烏と言われた網野光三郎、服部武、原田昭三や、義弟・永田重義も実力は伯仲していた。
- 1961年頃、打越信夫は三代目山口組舎弟・安原会会長・安原政雄と兄弟分となった。岡敏夫は広島外部の勢力の進出を快く思わず、打越の兄弟盃を嫌った。
- 1962年5月、岡敏夫は跡目を呉の山村組組長・山村辰雄に指名した。
- 窮地に立たされた打越は1962年9月に三代目山口組組長・田岡一雄の61番目の舎弟となり、打越組が山口組の配下に入り、三代目山口組広島支部打越会となった。
- 対して山村組は本多会の盃を受け、広島を舞台に山口組と本多会の代理戦争となった。
- 1967年8月26日、打越信夫は弁護士と伴に広島西警察署を訪れ、打越会を解散し堅気になることを誓った。