丸万金兵衛
丸万金兵衛(まるまんの きんべえ)は幕末の侠客。丸万一家初代。
略歴
- 幕末、明治初年に政府の警察力がほとんど萎縮していた時代に、山形市内の治安を一手に引きうけた形で君臨していた。
- 小姓町に妓楼を営み(後の貸座敷花芳楼)七日町に劇場「丸万座」を持っていた。
- 町の旦那衆にも出入りし、重宝がられ、多くの子分を養い、色々なもめ事などに解決役を引きうけていた。
義理がたい人で、よく子分の面倒を見る反面、町方の旦那衆や一般民衆には腰がひくく、曲ったことはしない人だった。
- 丸万金兵衛の片腕といわれた子分に、神田吉兵衛こと奥田吉兵衛が居た。
吉兵衛は、江戸の御家人奥田氏の生れで、チャキチャキの江戸っ子、しかも神田の生れである。
最初は客分として草鞋を脱いだが、明治十五年ごろ、金兵衛歿後は、この[]神田吉兵衛]]が丸万一家の跡目を継ぎ、小姓町に貸座敷「奥田楼」を開いて土着した。
- いま一人丸万金兵衛の歿後に小姓町を根城に男を売ったのが「鉄砲金」といわれた神田吉兵衛乾分村田金助で、米沢から山形に来た古物商だったが、その豪胆と機敏な性格で売出、後に貸座敷「村田楼」を営んだ。その他、大津の吉五郎(貸座敷新盛楼)などが丸万系の有力な幹部で、市内の南に上町の伊藤新作、北は宮町の砂押子之吉などというのが守場所を預かっていた。
- 明治15年頃歿。行年不詳。
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