竹中 武

竹中 武(たけなか たけし 1943年8月6日-2008年3月15日)は日本のヤクザ。二代目竹中組組長。元四代目山口組若頭補佐。1989年脱退。

略歴

  • 四代目山口組組長・竹中正久竹中組相談役・竹中正は実兄。
    8男5女の兄弟で、このうちヤクザとなったのは、三男の竹中正久、四男の英男、五男の竹中正、六男の修、八男の竹中武であった。
  • 1961年、竹中武は、長兄・竹中龍馬から金を借り、山陽電鉄姫路駅裏の南地の3階建ての家を借りて、売春宿「25時」を開く。
    同年11月、「25時」の女性従業員の愛人(木下会会員)が、「25時」で閉店間際まで飲んでいたため、竹中武の若衆が木下会会員を下駄で殴って追い出した。
    女性従業員が警察に訴えたため、竹中武は傷害で逮捕され、神戸の鑑別所に送られ、その後保護観察処分となった。
    同年12月、岡山市に竹中組(岡山竹中組)を設立。
  • 1980年3月上旬と中旬に開いた賭博により、竹中正久杉本明政矢嶋長次長谷一雄林喜一郎、大森忠明、山本真喜夫らと共に兵庫県警に逮捕された。
    警察は、テラ銭を1億5000万円と推定。
  • 1982年、山口組四代目跡目問題が浮上した際には、山口組四代目に竹中正久を推すグループに属した。
    同年8月25日、脱税の共謀容疑で逮捕された。
  • 1984年6月5日、竹中正久山口組四代目に就任。
  • 同年7月10日、継承式が執り行われた。
    竹中武は自ら「岡山竹中組」を率いていたが竹中正久の後継者として竹中組を引き受けるにあたり、姫路を拠点とする竹中組全体の組長に就任。同時に、四代目山口組直系若衆となった。
    同じく実兄の竹中正は、竹中組相談役に就任。
    便宜上、「二代目竹中組」とされていたが、竹中武自身からは二代目を名乗ることはなく、二代目を名乗らなかった理由の一つとして、当時服役中だった初代竹中組の若頭への筋と遠慮があったという。
  • 同年8月5日、山一抗争が勃発。
  • 1985年 1月26日、竹中正久が神戸の山口組新本部の上棟式の後、大阪府吹田市のマンションで、待ち伏せていた一和会・二代目山広組系組員に銃撃され意識不明のまま翌27日に死亡した。
  • 1988年(昭和63年)6月、山口組五代目跡目問題が浮上。
  • 1989年2月27日、山口組定例総会で、竹中武の山口組若頭補佐就任が発表された。
  • 同年4月20日、山口組緊急幹部会が開かれ、山口組五代目の人選が議論された。竹中武は態度を保留した。
    四代目山口組若頭・渡辺芳則と四代目山口組組長代行・中西一男が話し合い、中西一男が五代目山口組組長立候補を取り下げ、渡辺芳則山口組五代目擁立が決まった。
  • 同年4月下旬、神戸市花隈の山健組事務所で、渡辺芳則山口組本部長・岸本才三岸本組組長)と近松組・近松博好組長が、竹中武を山口組に留め置くことを確認し竹中武の連れ戻しを協議した。
    しかし、宅見勝は、竹中武の連れ戻しに反対。宅見勝は、山口組心腹会尾崎彰春会長に依頼して、岸本才三に、竹中武の連れ戻しを断念させた。
    渡辺芳則宅見勝の考えに同調し、竹中武の連れ戻しは白紙になる。
  • 同年5月10日、山口組緊急執行部会で、宅見勝山口組若頭就任が内定。竹中武は緊急執行部会を欠席した。
  • 同年5月18日、山口組本家で、渡辺芳則は、舎弟24人、若衆45人と盃直しを行なった。
    尾崎彰春の実子・尾崎勝彦ら4人が新たに直参になった。竹中武、矢嶋長次、牛尾組・牛尾洋二組長、森唯組・森田唯友紀組長は欠席した。
  • 同年6月4日、岸本才三西脇和美、神戸市の佐藤組佐藤邦彦組長が、竹中武を訪ね、「竹中正久の位牌と仏壇を受け取ってもらいたい」と頼み、竹中武は竹中正久の位牌と仏壇を受け取った。
  • 同年6月5日、山口組定例会で、竹中武、矢嶋長次、牛尾洋二、森田唯友紀山口組脱退を発表。
    竹中武は二代目を名乗らないまま、山一抗争の終結に異議を唱え五代目山口組の誕生と同時に山口組を脱退、これを許さない五代目山口組の執行部からは引退と解散を要求された。
    竹中武は、「要求を飲み竹中組は解散する。ただし自分は兄の残した竹中組を継いで「二代目竹中組」としてやっていく」と返答したが、五代目山口組執行部は答えになっていないと一蹴した。
  • 同年6月25日、竹中武は、中西一男石田章六倉本広文前田和男の訪問を受け、山口組の守り刀の譲り渡しを了承した。
    ただし、守り刀は文化庁に登録されていたため、新たに渡辺芳則の名前で登録しなければ、銃砲刀剣類所持等取締法第14条違反となった。
    竹中武は、渡辺芳則に、山口組代紋の山菱が施された純金製三つ重ねの金杯を送った。
  • 同日、「五代目山口組幹部一同」の名前で、他団体に向けて「竹中武、矢嶋長次森田唯友紀、牛尾洋二は、今後五代目山口組とは何ら関係なし」とする文書を送付した。これを切っ掛けに山竹抗争?が勃発した。
  • 同年7月5日、渡辺芳則山口組守り刀相続の書類が整った。竹中武の使いが守り刀を、桑田兼吉に届けた。
  • 同年11月5日、山口組本家で、竹中正久の組葬が営まれた。
    喪主は、中山きよみと発表されたが、中山きよみは列席しなかった。その後山口組は、香典として3000万円を中山きよみに贈ったが、中山に突き返される。
  • 1990年1月24日、竹中組組員が、山口県柳井市の元一和会幹部宅に侵入し、元幹部の家族から山本広の所在を聞き出そうとした。
  • 2008年3月15日、病死。享年64。


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