#author("2024-04-15T11:36:51+09:00;2024-04-14T10:09:13+09:00","","") * 堺町事件 [#udc74922] ''堺町事件'' とは1981年2月4日に福岡県で発生した[[草野一家]]と[[工藤会>工藤會]]の抗争事件。 ** 概要 [#gad4b6d0] -1981年2月4日水曜日、福岡県北九州市小倉の賑わう繁華街の夜に、初代[[草野一家]]若頭・[[大東亜会>大東亜組]]会長・[[佐古野繁樹]]と、[[工藤会]]理事長・[[矢坂組]]組長・[[矢坂 顕>矢坂顕]]が、互いに至近距離から銃撃戦を繰り広げ、全弾撃ち尽くし相撃ちで死亡した、歴史上前代未聞の事件。 *** 事件の発端 [#j3d77be7] -1979年12月1日、筑紫野市内にて、[[草野高明]]は三代目[[山口組]]二次団体・[[伊豆組]]組長・[[伊豆健児]]と五分の兄弟盃を交わし三代目[[山口組]]と関係を深めた。 [[工藤玄治]]をはじめ九州全域の親分衆が出席し、[[工藤会]]の最高幹部全員が出席した中、[[工藤会]]若頭・[[田中新太郎]]は「敵の[[山口組]]と縁を持つんに、なし祝わにゃいけんのや?」と、[[田中新太郎]]のみ結縁式を無断欠席し、音信不通となった。親分の[[工藤玄治]]が出席してる最中、[[田中新太郎]]のみが反発し、 親分の顔に泥を塗るばかりか[[工藤会]]の代紋を汚し、この両組織の縁組に出席した九州の各組織の親分衆に対しても、結果的に非礼を欠いた訳である。 -1980年、愛人宅に居た[[田中組>田中組(工藤會)]]組長・[[田中新太郎]]が、[[草野一家]]・[[極政会>極政組]]組員2名によって射殺された。初代[[草野一家]]総長・[[草野高明]]の結縁式を、 田中自身独断の意思で無断欠席したことに対する反発からと見られ、その後に抗争は激化の一途を辿った。 ---- *** 堺町事件の発生 [#j3d77be7] -1981年(昭和56年)2月4日未明、北九州小倉の堺町にある高級ラウンジクラブ「美松」を出た前で、[[草野一家]]若頭・[[大東亜会>大東亜組]]会長・[[佐古野繁樹]]と、 [[工藤会]]理事長・[[矢坂組]]組長・[[矢坂 顕>矢坂顕]]が偶然鉢合せした。口論は次第に激化し、双方が拳銃を乱射、映画さながらの激しい銃撃戦となった。 まず矢坂の警護に就いていた[[矢坂組]]組員が、その場で拳銃を数発発砲し、[[佐古野繁樹]]が撃たれた。しかし佐古野は倒れながらも腰から拳銃を抜き、 その佐古野の銃口は、たった2メートル程度の至近距離に立つ[[矢坂 顕>矢坂顕]]に向け拳銃を発砲し、矢坂も隠し持っていた拳銃で応戦した。 結果二人とも拳銃の全弾撃ち尽くし、その場で[[佐古野繁樹]]と[[矢坂 顕>矢坂顕]]の両名は出血多量で絶命した。すぐに地元警察が急行し現場検証を開始したが、検死結果や目撃情報、より精細な検証の結果、両名が至近距離から全ての弾丸を撃ち尽くし、相撃ちで果てたと知るや、抗争事件としては前代未聞の大事件であり、その執念に驚愕したという。この「[[堺町事件]]」から、[[工藤会]]と[[草野一家]]の抗争は泥沼化し、当月だけで6件もの発砲事件が発生した。 -1981年、[[稲川会]]会長・[[稲川聖城]]の仲裁により小倉北区の妙見会館にて[[工藤会]]と[[草野一家]]の手打ち式が行われ、完全に和解した。 ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正にご協力ください。 ※誹謗中傷や悪戯、荒らし行為、悪質な売名行為、他サイトの宣伝などは''厳禁''とします。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧ください。 -編集を依頼される場合、他のユーザーに編集協力を依頼する時は下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼してください。 運営宛に編集依頼する時は【[[メールで編集依頼]]】から依頼してください。 ---- 【このページの編集依頼】 #comment ~