#author("2022-10-18T02:06:26+09:00;2022-08-14T17:42:48+09:00","","") * 奥浦清司[#jbe9eb39] &size(16){''奥浦 清司''(おくうら せいじ、1943年12月17日- )は、指定暴力団・[[神戸山口組]]元顧問、[[奥浦組]]元組長。}; ** 略歴 [#u4c5847e] -1943(昭和18)年、共に教職員だった九州出身の両親の間に、旧枚岡市(現・東大阪市)で長男として生まれた。 -16〜17歳頃、母親が40代の若さで病死した事をきっかけに、不良の道を歩み始める。 -27歳で[[菅谷組]]傘下組織として''[[奥浦組]]''を旗揚げ、飛田新地に事務所を構えた。 -旗揚げから2年後、[[菅谷組]]若中となる。 -1977(昭和52)年、[[菅谷組]]組長・[[菅谷政雄]]が三代目[[山口組]]から絶縁される。 -1981(昭和56)年、[[菅谷組]]が解散すると三代目[[山口組]]・[[長谷組]]に舎弟として移籍。 [[長谷組]]では''奥浦聯合''を率いて東大阪を中心に勢力を拡大した。 -1989(平成元)年6月、五代目[[山口組]]直参に昇格。 五代目時代の[[奥浦組]]は組員数560人を誇った。 -2015(平成27)年8月、[[井上邦雄]]らと共に六代目[[山口組]]を離脱し、[[神戸山口組]]に顧問として移籍。 -三代目[[山口組]]組長・[[田岡一雄]]が初めて作った綱領の「国家社会の興隆に貢献せんことを期す」と記された教えを守り、「我々の社会の原点は、地域を安定させること。国家無くして組織無し。ヤクザの世界も、国がないと存在せんからね」と、地元の町会などからは幾度も感謝状を送られ、親分として親しまれてきた。 奥浦清司の個人名で送られた挨拶状には「今後は現在の国体を危惧し憂い、愛国心を以って国家社会の為に今何をすべきかを考え、行動して参る所存で御座居ますれば」と記されていた。 -2021(令和3)年4月、引退し、[[奥浦組]]も解散させた。 ---- -この項目は書きかけ項目です。 -役職や名称等、人事の変更がされても、必ずしも最新の情報とは限りません。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。 ※誹謗中傷や悪戯、あらし行為、悪質な売名行為、他サイトの宣伝などは厳禁とします。 -編集される際は「[[テキスト整形のルール(詳細版)>FormattingRules]]」をご覧下さい。 -編集を依頼される場合、他のユーザーに編集協力を依頼する時は下記の【このページの編集依頼】または【[[加筆・編集依頼]]】から''編集対象のページタイトル・編集内容''をできるだけ詳しく記載の上、依頼して下さい。 運営宛に編集依頼する時は【[[メールで編集依頼]]】から依頼して下さい。 ---- 【このページの編集依頼】 #comment ~