藤木幸太郎

藤木幸太郎(ふじき こうたろう、明治25年 - 昭和55年)は日本の実業家(港湾荷役業者)、ヤクザ、博徒。藤木企業初代社長。現在、神奈川県横浜市中区北仲通にある藤木企業株式会社の創設者。埋地一家初代。

略歴

  • 1892年(明治25年)、横浜市戸部町(現在の横浜市西区)に生まれた。
  • 17歳の時に船乗りになろうと志す。
  • 貨物船の炊事係などを経て1910年(明治43年)、三菱汽船の港湾荷役を取り扱う本間組に入社。翌1911年(明治44年)には甲種沖仲仕の鑑札を取得した。
  • 明治末に神戸の鶴井組が京浜工業地帯の埋立機材を扱うに当たり、横浜の港湾労働者は自分たちの職域が荒らされると思い関わろうとしなかったが、幸太郎は「港で働く者に関東も関西もない。お互い様だ」と、鶴井組の現場責任者の酒井信太郎(後の鶴酒藤兄弟会の創設者)を助けた。
  • 酒井信太郎はそののち酒井組を設立し、1913年(大正2年)に責任者の立場で迎え入れられた。現場で先頭に立ち、能率よく迅速に荷役を行う仕事ぶりは「藤木の早荷」と呼ばれ、業界で一目置かれるようになった。土木や荷役の世界は親方が仕事の先頭に立つと腕利きの幹部が集まり企業の風土としてまとまる習いがある。
  • 1923年(大正12年)1月、のれん分けのような形で藤木組を創設。海岸通3丁目に事務所を構えた。
  • 同年9月1日、関東大震災発生。神奈川県は、港外に避難していた東洋汽船のぱりい丸の積み荷の、サイゴンから輸入した米3000トンを緊急に荷揚げすることを決定。幸太郎は県からの依頼を快諾。3日間で荷揚げを済ませ、被災者への炊き出しが行われた。
  • 1926年(大正15年)、港湾荷役業者の全国規模の団体として鶴酒藤兄弟会が設立された。有力な港湾荷役事業者であった鶴井寿太郎、酒井信太郎、藤原光次郎の頭文字をとって団体名はつけられた。酒井信太郎の子分格として著名なのが藤木幸太郎、鶴岡政次郎(東海荷役、綱島一家五代目)、笹田照一(笹田組、笹田一家)であった。また、鶴酒藤兄弟会の神戸地区責任者が、二代目山口組組長・山口登であった。
  • 1941年(昭和16年)10月、戦時統合により横浜船舶荷役株式会社が発足したが終戦後の1946年9月に解散。統合前の組から新会社が数社発足。藤木組も1947年7月25日に法人組織として「株式会社藤木組」として設立、同年11月に藤木企業株式会社に改称した。
  • 1949年(昭和24年)、名古屋営業所開設。1952年(昭和27年)、その業務一切を継承する藤木海運株式会社(現・株式会社フジトランスコーポレーション)を設立。
  • 1953年(昭和28年)5月、日本郵船、三菱倉庫、藤木企業の共同出資で三協運輸株式会社(現・株式会社三協)を設立。
  • 同年7月、交通船・繋離船事業を分社化し株式会社ジャパンポートサービス(現・株式会社ポートサービス)を設立。
  • 1955年(昭和30年)11月、全国港湾荷役振興協議会(全港振)会長に就任。
  • 1957年(昭和32年)7月、運輸大臣より海事功労者として表彰を受ける。
  • 1958年(昭和33年)5月、有限会社みなと石油商会(現・株式会社みなと石油商会)を設立
  • 1962年(昭和37年)11月、藍綬褒章を受章。
  • 1965年(昭和40年)7月、船内部東京港作業所を独立させ藤木荷役株式会社を設立。同月、藤幸株式会社(現・藤木商事株式会社)を設立。
  • 1966年(昭和41年)5月、勲四等瑞宝章を受章。
  • 1969年(昭和44年)4月、運輸部を独立させ藤木陸運株式会社を設立。
  • 1978年(昭和53年)4月、株式会社みなと輸送を設立。
  • 1979年(昭和54年)7月、藤木自動車整備株式会社を設立。
  • 1980年(昭和55年)11月、死去。享年88歳。
  • 埋地一家初代を名乗ったとされる時期は不明。


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