圡支田新鍛冶

圡支田新鍛冶(どしだの しんかじ、本名・榎本新左衛門(えのもと しんざえもん)、-明治21年)は幕末から明治の侠客、博徒。圡支田一家初代。

略歴

  • 武蔵国北豊島郡大泉村元上土支田村(現・東京都練馬区土支田)に、庄屋(名主)の次男として生まれた。兄は榎本常三郎で実家を継ぎ地元の名士となった。
  • 新左衛門は丁半博打に目がなく、武蔵国多摩郡神山村の博徒の親分である神山栄五郎の盆に年中出入りしていた。
    そこで神山栄五郎に認められ、栄五郎の親分(兄弟分とも)である清水次郎長のもとへ預けられた。
  • 清水次郎長の若衆として四年間男を磨き、清水次郎長から子分二人をもらって故郷の土支田村へ帰り、そこで圡支田一家を興した。代紋を制定した時期は不明であるが下がり藤に新の字を一家の代紋とした。
  • 明治8年、神山栄五郎が抗争に巻き込まれて死亡した。清水次郎長は兄弟分の死を深く悲しみ、これをきっかけとして新左衛門を五厘下がりの舎弟に直す出世盃を行い、これから一家を束ねていく新左衛門を励ました。
  • 新左衛門は清水次郎長の後ろ盾を得て圡支田一家は躍進していった。
    兄である榎本常三郎もまた古今無双の人物で、背丈は高く二十貫を越える体躯で、腕っぷしは無論、頭脳も明晰だった。新左衛門が出入りの際には、後を押して共に武器を揃えて怒声を発したという。
  • 明治初期に新左衛門が博徒狩りにより警察に捕まった際、裁判官から「お前の縄張りはどこからどこまでだ」と訊問され、顔色も変えず「富士の山から見渡す限りは俺の縄張りだ」と答えた逸話が残るほど広大な縄張りを有した。
  • 明治21年歿。行年42歳。圡支田一家の二代目は大門山の忠造こと佐久間忠造が継いだ。

検索:圡支田ノ新鍛冶、土支田ノ新鍛冶、榎本新左衞門



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